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00-1はじめに(塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

 2003年12月、真姿の池湧水の崖上に計画された大規模マンション建設がついに着手され、泉につながる水みちの上に巨大な鉄の基礎杭が103本も打ち込まれました。直径1mを越える鋼管杭の先端には直径2mの羽根がついており、その羽根を回転させることで関東ローム層とその下の砂礫層を掘削して杭を貫入させる方式が採られました。基礎工事に続いて躯体工事も着々と進み、2004年の盛夏を待たずして、ハケ下の史跡から見渡す崖線樹冠の上にマンション躯体がニョッキリと姿を現しました。太古より守られ続けてきた国分寺崖線の連続した緑の景観はここへ来てついに分断されてしまったのです。

 天平時代、ここが武蔵国分寺造営の地として選ばれたのは、この地がまさに四神相応の地としての条件を全て兼ね備えていたからと聞きます。北の玄武(泉湧く丘)、東の青竜(野川)、南の朱雀(国府)、西の白虎(大道=東山道武蔵路)の全てが揃う、まさに好処そのものだったのです。

 私たちは七重の塔跡から北に望む崖線の、まさしく真正面にマンション躯体が姿を現したのを見て、マンションの真下に湧く真姿の池湧水と七重の塔が、まさに南北の位置関係にあることを実感しました。村山光一先生のお説のとおり、なだらかに連なる緑の崖線景観と湧水と塔とはまさに不可分の関係であったこと、そのような位置関係になるように塔の場所が選ばれていたことを実感しました。

 1200年もの間、壊されずに守られてきた歴史的景観が私たちの時代に壊されてしまった。筆者はそのことに少なからず衝撃を受けました。そのことを契機として、地元住民である筆者は、方位磁石と遺跡地図を片手に、ひたすら史跡周辺を歩き、1200年前、どこに何があったのか、その位置関係がどうなっているのかを確かめてまわりました。その結果、武蔵国分寺の区画や主要施設の位置が、ことごとく塔からの方位によって説明できることに気づきました。

 筆者は古代史や考古学について、興味はあるが全くの素人であります。国分寺市の教育委員会が編纂した郷土史解説本や遺跡発掘調査報告など、一般市民の手に届くものは出来る限り目を通し続けていますが、「武蔵国分寺の区割りと配置が塔からの方位によって説明できる」とする解説にはまだ遭遇しておりません。そんな風に見た人がいなかったのか、それとも既に否定されていることなのか、そのことさえ筆者は知りません。

 ただ、筆者は日頃、音楽や芸能に携わっているため、舞台づくりを自分の本分と考えて暮らしています。筆者にとって、自然景観は一種の舞台に見えます。等高線の書き込まれた地形図を見ても一種の舞台配置図に見えてしまい、航空写真のような鳥瞰図が目に浮かびます。そして舞台づくりに携わる者特有のクセでしょうか、モノの配置や動線は、前後左右や上下だけでなく、円や対角線で見たり、実際には見えていない角度から視るクセがあります。

 今、筆者の頭の中には、崖線の裾野に広がる古代寺院の景観がコンピュ-タ・グラフィックのように浮かび、現在の史跡周辺の風景とオ-バ-ラップしています。脳ミソとはなかなか便利なものです。この頭の中の映像を、巨大な体育館のような空間を使って、空気の中に浮かび上がらせることができたらさぞかし面白いだろう、そんな博物館が出来たらいいのにな、と夢を描いているのですが、夢は夢として、今は言葉と図を使って描くことにトライしてみようと思い立ちました。

 国分寺建立の主人公、聖武天皇がその時どんな夢を夢見たか、それを浮かび上がらせることが出来たら面白いですね。怖いもの知らずの素人だからこそ、歴史を今の暮らしに引き寄せた紐解き方があってもいいのではないかと思っています。

 読んでくださる方を最後まで引き付けられる自信はまるでありませんが、お付き合いいただけるところまでお付き合いくださればありがたく思います。
2006年夏 国分寺・名水と歴史的景観を守る会 畑中久美子

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00-4目次 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る~今も生きる国分寺市都市計画第一号

<目次>
●00-0表紙
●00-1はじめに
●00-2武蔵国分寺跡全体地図(国分寺市作成)
●00-3武蔵国分寺四次元村・絵地図(畑中作成)
●00-4目次

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む・・・・・1
01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る -----1
02.寺院地の形と崖線の関係 -----2
03.七重の塔と湧水の関係 -----3
04.七重の塔と富士山の関係 -----4
05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す -----5
06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係 -----6

Ⅱ.草創期の区割りと配置・・・・・・・・・・・・・・・・7
07.古寺院地区画溝とは? -----7
08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? -----8
09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目 -----9
10.「古寺院地区画の原型」を割り出す -----10
11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう -----11
12.「原型」を左に傾ける -----12
13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する -----13
14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる -----14

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置・・・・・・・15
15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ)-----15
16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する -----16
17.参道口からの眺めをイメ-ジする -----17

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・18
18.尼寺の場所は浸水危険地帯では? -----18
19.尼寺伽藍地の不思議なかたち -----19
20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか? ---20
21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 -----21
22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか? -----22

Ⅴ.もうひとつの七重の塔・・・・・・・・・・・・・・・23
23.もうひとつの七重の塔が出てきた! -----23
24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える -----24
25.七重の塔を再建した壬生(みぶの)吉士(きし)福(ふく)正(しょう)という人物 -----25
26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと ---26

Ⅵ.今も生きている都市計画・・・・・・・・・・・・・・27
27. 塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた ---27
28.武蔵国分寺プランの独創性 -----28
29.今も暮らしに生きている古代道 ①僧寺への参道 -----29
30.今も暮らしに生きている古代道 ②堂道 -----30
31.今も暮らしに生きている古代道 ③四中北側の道 -----31
32.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-1 -----32
33.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-2 -----33

Ⅶ.国分寺崖線の湧き水の威力・・・・・・・・・・・・・34
34.2004年秋の大湧出 -----34
35.1991年秋の大湧出とJR新小平駅・隆起水没事故 -----35
36.野川公園「自然観察園」で湿地帯を体感する -----36
37.野川・人工堰を押し切ったあばれ川のエピソ-ド -----37

Ⅷ.水と塔を中心とした造営計画・・・・・・・・・・・・38
38.治水と利水の都市計画 -----38
39.聖武天皇と水 -----39

●おわりに -----40
●武蔵国分寺周辺の風景 -----41
●参考図書・資料・ホ-ムペ-ジ -----42, 43


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01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る
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広大すぎる寺域や離れすぎの塔など謎に満ちた武蔵国分寺。尼寺を含めた全体の中央に僧寺金堂があることから、金堂を中心に区割りが作られたのではないかと言われているが、その金堂の位置はどうやって決められたのか。ここでは七重の塔を中心とする方位から、寺院地区画と建物配置の設計原理を探ってみたい。

武蔵国分寺の不思議
①七重の塔と中枢部が異様に離れている。
②僧寺寺院地が並外れて広大、しかも五角形。
③主要施設の中軸線の向きがバラバラ。
・僧寺中枢部中軸線:おおよそ西偏7度。
・七重の塔:現存礎石の並びから判断すると、真北もしくは東偏1度を背にしている。
・東山道武蔵路:おおよそ東偏2度。
・尼寺中枢部中心軸:およそ西偏2度
④僧寺北辺の溝の折れ曲がりは何のためか。
⑤尼寺伽藍地は歪な四角形。伽藍地の東辺が東山道に沿わずに、北上するほど道路と離れて行くという奇妙な角度を持っている。
⑥尼寺は崖線の際にあまりにも近く、大湧出の際、北西の湧水群からの直撃を免れられない地形だ。寺院造営に適した場所とは思えない。
⑦「もうひとつの七重塔」まで出てきてしまった。

寺院地の形と地形の関係を眺めてみよう
寺院地は、崖線の裾野に湧き出る湧水の崖上まで取り込んでいる。加えて、現在の元町用水から元町通りに向かって地形が中華鍋の底から縁に向かうようになっていることから、湧水の南側150mほどは湧水による浸食を受けており、本格的な建築物が建てられない湿地だったと考えられる。こうしたエリアを取り込んでいることが異様に広い寺院地が形成された一つの理由だったと思われるが、それにしても、寺院地内の施設の位置や、奇妙な形をした寺院地の角は何を元にして決定されたのだろうか。まずは寺院地の形と地形の関係がどうなっているかトクと眺めてみよう。




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02.寺院地の形と崖線の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

02.寺院地の形と崖線の関係
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このあたりの国分寺崖線は、寺院地を取り囲むように湾曲しており、しかも地図上で右肩上がりに連なっている。寺院地はその連なりに沿いながら、崖線を取り込むように形成されている。

崖線のラインに沿った区画になっている
崖線の連なりが、開いた扇の縁のように湾曲しており、そのラインに沿うように寺院地全体の区画が形成されている。崖から北はいずれの箇所も100mほど寺域に取り込まれており、また、崖が東西方向に600m以上も取り込まれている。地図上で右肩上がりに連なっている崖線のラインに、寺院地全体が平行するような形になっている。実際にハケ下の寺院地を歩いてみると、どこに立っても崖線が正面に見えるのだ。

寺院地が広大な原因は塔にあり?
寺院地の南北方向550~600mもの長大さについては、①崖上まで寺院地に取り込まれていることと、②崖下から南、現在の元町通りまでの150mほど、本格的な建築物が建てにくい湿地が取り込まれているために主要施設はそれより南にしか建てられなかったこと、を理由にあげることで一応の説明がつけられるが、東西方向にこれほど長くなっているのは何故だろう。
崖線の約300m南にある塔は、寺院地の西辺・東山道から400m以上も離れている。なぜこれほど離れているのかというと、塔が真姿の池湧水のほぼ真南を選んで建てられたからだろう。湧水から塔へ生活道路をつたって最短ル-トで向かうと、まさに南北であることがわかる。東山道と湧水が400m離れているから東山道と塔も400m。しかもこの塔は、寺院地の北西の角と南東の角を結ぶ対角線上に位置している。
そうなると、湧水と塔の位置関係が寺院地の広大さを決定づけているのではないかという想像がつく。そこで、塔と湧水との関係、塔と東山道との関係に着目して調べてみよう。

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03.七重の塔と湧水の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

03.七重の塔と湧水の関係
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崖線の裾野に釈迦三尊像のように並ぶ3つの湧水を背後に均等に背負える場所が選ばれて塔が建っている。太陽が南中する頃、塔の影の先端はまっすぐに真姿の池湧水を指す。塔はさながら巨大な日時計だ。夜、北極星は北の玄武・懐に泉を抱く丘の上に輝く。武蔵国広しといえどもこんなロケ-ションは滅多にないだろう。

塔の背後に並ぶ3つの湧水
七重の塔跡に残る礎石の並びを見る限り、塔はその背中にほぼ真北を背負って建っていたはずだ。7度西偏の僧寺中枢部中軸線とは明らかに方向が異なる。
塔のほぼ真北には「真姿の池湧水」がある。地図上で七重の塔跡から「真姿の池湧水」の方向を測ると、真北からおおよそ1度東に傾いている。この「七重の塔跡」と「真姿の池湧水」を結ぶ東偏1度線を基軸として30度刻みに方位線を描いたのが左の地図だ。
「万葉植物園湧水」は「真姿の池湧水」の西約200m、「リオン下湧水」は「真姿の池湧水」の東約200mの北西に窪んだ崖の奥まった場所から湧出している。塔との位置関係を見ると「真姿の池湧水」と七重の塔を結ぶ線から西に30度の線上に「万葉植物園湧水」が、そして東に30度のやや内側に「リオン下湧水」がある。
3つの湧水はいずれも寺院地に取り込まれており、真姿の池湧水を中心としてさながら釈迦三尊像のように並んで七重の塔の背後に控えている。この湧水と塔の位置関係は偶然ではないだろう。

最初に塔の位置が決定されている
塔がもっと北に寄れば両側の湧水への角度は30度より開き、塔がもっと南に下がれば角度はしぼむ。まさに絶妙なバランスで湧水を背負う一点が選ばれて塔の位置が決定されている。ただし、両翼の湧水を約30度に捉えられるエリアは、東西方向に100m近く幅がある。真姿の池湧水を真北に捉える位置(今より少し東)に塔を置いてもこの関係は成立する。ならばなぜ基軸を1度東偏させたのか、その理由が富士山との位置関係にありそうだということを次項で話そう。

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04.七重の塔と富士山の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

04.七重の塔と富士山の関係
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寺院地南辺の溝が東山道にぶつかる「南西の角J」は、塔から見ると「方位241度線」が東山道と交わる地点だ。241度線は富士山頂に通じ、冬至の太陽は富士山頂の真下に沈む。

南西の角は富士山頂に通じる
寺院地の南西の角「J」は、寺院地南辺の溝が東山道にぶつかることによって形成されている角であるが、この角は何故この場所に作られたのだろうか。実はこの場所、塔から見ると冬至の太陽が沈む方角だ。そしてこの方角は、国分寺から見た富士山頂の方角(真西から29度南)と一致する。国分寺では今も昔も、冬至前後の太陽は富士山の山頂に沈むのだ。
太陽が最も南に沈む冬至の日(12月22日)、太陽は富士山の向かって左の肩口から入り、山頂の真下に沈む。そして、冬至の20日ほど前と冬至の20ほど後、太陽は富士山頂に沈み、天気がよければしばしばダイヤモンド富士が見られる。それはさながら、そこに仏が現れたような荘厳な光景となる。
その富士山頂の方角が241度だ。東偏1度を基軸として30度刻みに描いた12方位の一つがこの方角を指す。敢えて真北を基軸とはせず、東偏1度ラインが基軸となるように塔を配置した理由はここにあるのではないだろうか。うまく折り合いがつくように「図面上の微調整」が行われているようなのだ。
そして、塔から富士山頂への方位線が東山道と交わる場所が僧寺寺院地の「南西の角」と定められ、寺院地南辺の溝はそこに向かって掘られたのだ。そして、その角には尼寺伽藍地の「南東の角」が近接している。
ちなみに21世紀の今でも、冬の晴れた日、七重の塔跡からは富士山が見える。まるで1200年前の古代寺院の残像が今もこの地に生き続け、人の目には見えない七重の塔が、今も寺院地の角ごしに、かなたの富士を見つめているようだ。

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05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す
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七重の塔から西の空を眺めると、夏至の太陽は「I」の彼方の武蔵野台地の地平に、冬至の太陽は「J」の彼方の富士山に沈む。日没の太陽はI-J間60度に開ける地平の彼方を一年でダイナミックに往復する。古代の人々は太陽の運行のダイナミズムを現代人より遥かに実感し、世界を支配する神秘な摂理として捉えていたに違いない。

寺院地北西の角「I」は二つでひとつ
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寺院地北西の角には角と言うべき場所が二つある。
一つ目の角「301度線」(オレンジ線)と「東山道西辺」の交点を「I-1」としよう。寺院地北辺の溝はこの交点にぶつかり角を形成している。しかし「塔からJ」を半径とする緑色の円は「I-1」に交わらない。これは、東山道が2度ほど東偏しており、塔と真姿の池湧水を結ぶ東偏1度線と平行ではないからだ。
「塔からJ」を半径とする緑色の円が「東山道西辺」と交差する場所が「I-2」、これがもうひとつの角だ。
「I-1」から「塔」の延長線は寺院地南東の角「C」からわずかにズレる(オレンジ線)。その「C」から「塔」の延長線は「I-2」に到達する(ピンク線)。「I-2」は「塔」を挟んで「C」と対角をなしている。
I-Jの距離は塔との距離で決まる
「I-塔-J」はほぼ正三角形だ。塔の位置がもっと東山道寄りであれば、「I-J」の距離は短くなり、もっと遠ければ「I-J」の距離は長くなる。「I-J」すなわちこの寺院地の南北の長さは、塔と東山道の距離によって決定されているということがわかる。
その塔は、真姿の池湧水の南300mに位置するように場所が選ばれたわけだから、「I-J」の距離と角の位置は、塔と湧水の関係によって決定されている。
この寺院地の核はつまり「湧泉」なのだ。

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06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係
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僧寺中枢部の中軸線は「塔」と北西の角「I-2」を結ぶ線の真中を通過し、「中門」は271度線の上に乗っている。中枢部中軸線は、七重の塔からの方位ラインによって規定されているのだ。

中軸線を塔が規定している
僧寺北西の角「I-2」と「塔」と「C」を結ぶ直線(ピンク線)には重要な役割が担わされている。ここでは塔を中心とする東西軸も加えて、以下の2点について話しておこう。

①北西の角「I-2」は「塔」をはさんで南東の角「C」と対角をなしているが、このラインは「301度-121度線」(オレンジ線)を、塔を中心に1度ほど時計回りに回転させたライン、と考えることもできる。僧寺中枢部の中軸線は、この「I-2」と「塔」を結ぶ線の真ん中を通過している。

②中軸線上にある「中門」は、塔からの271度線の上にあり、塔と中門は東西横並びになっている。このことは、付近の地理に明るい者にとっては意外な感じがする。付近の現在の東西道路は、どれも僧寺中枢部中軸線にほぼ直角に走っているため、七重の塔は中門よりワンブロック分、南にあるように感じられているのだ。しかし、塔からの方位ラインを地図上に引いてみると、塔と中門は寺院地の東西軸上で横並びであることがわかる。
以上のことから、僧寺中枢部の建物配置は、どうやら塔との位置関係に規定されて設計が行われているらしい。そうなると、「中枢部中軸線の角度」が決定されるにあたっても、塔との位置関係が関わっているのではないだろうか。

そこで次に注目したいのが「古寺院地区画溝」だ。寺院地の北東の角「B」と南東の角「C」、そして北辺の溝の奇妙な「折れ曲がり」がいかに決定されたかを探ることで、中枢部中軸線の角度の謎に迫ってみよう。

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07.古寺院地区画溝とは? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

07.古寺院地区画溝とは?
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僧寺中枢部の中軸線の少し西側から、一旦掘られて埋め戻された溝跡が出てきた。武蔵国分寺の草創期には、「ピンクの枠」のような寺院地区画が計画されていたと考えられている。

聖武天皇による勅令の変遷
①天平9年(737年)3月
「続日本紀(しょくにほんぎ)」に、諸国に釈迦仏像と菩薩像の造仏と大般若経の書写が命じられた、という記録がある。(仏像を安置するためには金堂も建立されなければならないだろう。)

②天平12年(740年)6月
「続日本紀」に、諸国に法華経の書写と七重塔の建立が命じられた、という記録がある。(造仏と寺の建立の勅命に七重塔建立が追加された)

③天平13年(741年)2月
国分寺建立の詔が出される。(七重の塔と寺の建立に尼寺をセットで建立せよという勅命)
わずか4年足らずの間に次々と追加命令が出ている。②と③の間はわずかに8ヶ月だ。矢継ぎ早の追加命令から、当時の天然痘の流行や凶作による荒廃、巨大地震などの天変地異が余程深刻で、危機対策に迫られていたことがうかがえる。

こうした変遷を経て、最終的には現存の遺構の場所(尼寺は東山道の西、僧寺中枢部は東山道と塔の中間あたり)に創建されたわけだが、現存の僧寺中枢部中軸線の少し西側に、一旦掘られて埋め戻された区画溝跡(A-D)が検出されている。これは武蔵国分寺の草創期、現存の僧寺伽藍地区画よりも古い時期に区画された溝と考えられている。それから間もなく、僧寺中枢部を東山道寄りに造営するよう計画変更が行われ、それにともない「A-D」の溝のみが埋め戻され、北辺、東辺、南辺の区画溝は、計画変更後の区画にそのまま組み入れられたものと考えられている。


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08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか?
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「古寺院地区画溝A-D」の位置と傾きの角度、「B」「C」の位置はどうやって決められたのだろう。そこで試しに、塔と真姿の池湧水を中軸として3つの湧水を均等に取り込むように「黄色い枠」を書いてみる。すると「ピンクの枠」は、「黄色い枠」を左に傾けると出来る形だということは一目瞭然だが、これを少し理屈で説明しよう。

塔を中心とした設計原理
05で述べたように、寺院地の北西と南西の角は、塔から見て夏至の太陽や冬至の太陽が沈む方角が東山道と交わる点を定め(「I」と「J」)、そこにむかって区画溝を掘ることによって角地を形成したものだ。古寺院地区画(ABCD)における北西と南西の角は、いずれも塔からの12方位ラインには乗っていないが、北辺の溝・南辺の溝ともに、西に延長していくと「I」・「J」に到達するように溝の方向が定められている。

このことから、塔から見た日没の範囲を示す「I」地点と「J」地点は、「古寺院区画」が計画された当初から強く意識されており、区画全体を決定する基準点となっていたことがうかがえる。言い換えれば、塔の置かれた場所が全ての計画の基準点となって、全体設計が行われたということだろう。

その塔の場所は03で述べたように、3つの湧水との位置関係において絶妙な一点が選ばれている。

ならば、古寺院地区画の立案にあたっては、まずは左図の「黄色い枠」のようなエリア、すなわち、塔と真姿の池湧水を結ぶ線を中軸として塔の背後に三つの湧水を均等に取り込む「原理的なエリア」とも言うべきエリアがまず想定され、この「黄色い枠」の南辺を西に延長すると「J」地点に到達する角度まで枠を左に傾けるという操作が行われたのではないだろうか。続いて北辺を延長すると「I」に到達するように区画が引き直され、それによって、古寺院地区画の「角の場所」と「辺の角度」が決定されたのではないだろうか。

ならばその「原理的なエリア=古寺院地区画の原型」とは、具体的にどのようなものだったのだろうか

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補足資料:古寺院区画決定手順略図(推定) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

07から12までの補足資料

↓画像をクリックして新しい画面を出し、もう一度クリックすると原寸大になります。
08-2古寺院区画決定手順略図.JPG

古寺院区画決定手順略図.doc(ワード版)
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09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目
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なんとも不思議なのは、寺院地北辺の奇妙な折れ曲がりだ。この折れ曲がりは一体なんの印だろう。そして何故この場所で折れ曲がっているのだろうか。

古寺院地区画の原型の幅を割り出す
仮に「B」から「I」を直線で結んだとしても、湧水の北側に確保された敷地が特に狭くなるわけでもない。この折れ曲がりは一体なんの印で、何故この場所で折れ曲がっているのだろうか。
東山道まで拡大された寺院地(IBCJ)の中でこの折れ曲がりを見ると、中心から大きくはずれている。だが、古寺院地区画(ABCD)の中でこの折れ曲がりを見ると、北辺の真ん中近くで折れ曲がっていて、なんだかカメムシみたいなカタチだ。古寺院地区画の北辺の真ん中近くで折れ曲がっているとなれば、前項(08)で描いた「黄色い枠」の中軸線が、傾きとともにここに移ってきたものだろうと容易に想像がつく。
「黄色い枠」が具体的にどんなサイズでどんなカタチをしていたのか、それを割り出してみよう。割り出されたものが、「古寺院地区画の原型」というわけだ。
まず、折れ曲がりの場所から下に向けて古寺院地西辺と平行に線を引き(青線)、ピンクのカメムシを縦に二分割する。すると、左半身の幅(赤矢印)は右半身の幅より少し小さいことがわかる。おそらくこの左半身の幅が、「古寺院地区画の原型」を「東偏1度の中軸線」で縦に二分割した半身の幅と同じだろう。
「古寺院地区画の原型」の南西の角は、塔から見た富士山の方角=241度の線上にあるに違いない。そこで、「東偏1度の中軸線」と「241度線」の距離が赤矢印の長さと同じになる場所を探す。「241度線」を南にたどるほど「東偏1度の中軸線」との距離は開いて行き、赤矢印の長さとほぼ同じになる場所は、「塔」と「J」を結ぶ線のちょうど真ん中にあった。


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10.「古寺院地区画の原型」を割り出す [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

10.「古寺院地区画の原型」を割り出す
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実際に計画されていた「古寺院地区画」の左半身のサイズと湧水の位置を基にして、「古寺院地区画の原型」の縦・横のサイズを割り出してみよう。

東西の幅と南北の長さを想定する
前項(09)で割り出した左半身の幅(赤矢印の長さ)を東偏1度の中軸線の右側にも取って、あわせて「黄色い枠」の南辺とする。これで「古寺院地区画の原型」の東西の幅が想定された。

次に南北の長さを想定しよう。これは湧水の北側の崖地と崖上をどのくらい取り込むかによってかわってくるが、とりあえず、3つの湧水の中で一番北に位置する「リオン湧水」の崖上平坦部に差し掛かるところまでを南北の長さと仮定し、東辺をこの長さとした。(崖上平坦部のはじまりは地図上の等高線から判断)
ちなみにこの東辺の長さは「I-J」とほぼ同じ長さとなる。

北辺については、中軸線から西を延長すると「I」に到達するように、中軸線のところで折り曲げておく。これを「古寺院地区画の原型」と仮定しよう。
ここまでをもう一度整理すると、
①実際に計画されていた「古寺院地区画」を北辺の折れ曲がりのところから縦半分に割り、
②その「半身のサイズ」を基にして「原型」の東西幅を割り出し、
③湧水の位置を基にして「原型」の南北の長さを想定する。

こうして出来た「黄色い枠」のエリアが「古寺院地区画の原型」だったと仮定し、ここから「古寺院地区画」に遷し(移し)かえるには、どこを支点として傾け、どのような道筋を通ったのかをたどってみたい。

が、その作業をはじめる前に、原型と推定されるこのカタチをあらためてトクと眺めてみよう。

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11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう
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3つの湧水を均等に取り込むように塔の場所が決定されたのに、なぜその中軸線上に、南大門・中門・七重の塔・金堂・講堂を並べなかったのだろうか?

塔と湧水の距離はたっぷり300m
釈迦三尊像のように並んだ湧水を背後に取り込むことのできる一点を選んで塔が建てられたからには、中央の湧水と塔を結ぶ中軸線の左右に均等な寺域が用意され、その中軸線上に、大阪の四天王寺のように南大門・中門・七重の塔・金堂・講堂を並べれば、これ以上はないほどの理想的な配置となりそうなものだ。塔と湧水は300mも離れており、間に中枢部を形成するに十分なスペ-スがあるように見える。

奈良時代の寺院には四天王寺式の配置は既に見られないようだが、それなら塔の近くに中枢部を置き、中軸線の向きを塔と一致させる配置だってできそうなものだ。

しかし、古寺院地区画が斜めに傾けられたということは、そこに配された中枢部中軸線は、東辺と西辺に平行(南辺に直角)であったはずだ。

いったいなぜ中枢部中軸線は斜めにされなければならなかったのだろうか。

この疑問については後ろの14項であらためて考えることにして、まずはこの「黄色い枠」を左に倒して「ピンクの枠」に遷し変える道筋をたどってみよう。

最初の問題は、「ピンクの枠」は「黄色い枠」のどこを支点として左に傾けた結果なのか、ということだ。塔を支点として左回転させたものなら青点線(ピンクの枠の縦割り)は塔と重なるはずだが、重なっていない。そうなると支点になりうるのは南東の角だ。この角を支点として「黄色い枠」を左に傾けることでどうやって「ピンクの枠」に遷しかえることが出来るか、設計者がたどったであろう道筋をたどってみよう。






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12.「原型」を左に傾ける [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

12.「原型」を左に傾ける
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121度線上に乗っている「黄色い枠の南東の角」を支点として左に傾けて行き、南辺の延長線が「J」に到達するところで回転を止めたものが「黄緑色の枠」だ。

古寺院区画の角と辺が決定された筋道
「黄色い枠」の北辺を中軸線との交点で折り曲げた場所はピンクカメムシの頭の位置に来た。「古寺院地区画」北辺の折れ曲がりは、「原型における北辺と中軸線の交点」が移されたものだったことがこれでわかった。

次に、「黄緑色の枠」の折れ曲がりから西側は角地「I」に向かわなければならないので、そのように線を引きなおす。西辺はピンクとほぼ重なっているが、ピンクよりやや傾きが大きくなっている。

東辺はと言うと、リオン湧水が「黄緑色の枠」の外に飛び出してしまった。そこで、「黄緑色の枠」の南東角を、直角を保ったまま121度線上を外へ向かって滑らせる。東辺がリオン湧水を内側に取り込み、南辺の延長線が「J」に到達するところまでエリアを拡大する。

この時、121度線上にある「南東の角」を「C」の位置にずらすという操作がなされている。つまり「301度-121度線」を塔を中心に1度ほど時計回りに回転させ「I-2」の位置まで移動させてやれば、「121度線」上に乗っている「古寺院地区画南東の角」は「C」の位置に移される。二つの「I」を利用したわけだ。地上面では数mの移動だが、南東角を「C」に移した結果、東辺の傾きが少し小さくなる。こうして「B」「C」が決定される。設計者が東辺の傾きを小さくしたかったのは、東辺の傾きが中枢部中軸線の傾きを決定するからだろう。その東辺と平行になるように西辺の傾きを修正する。こうして「A」「D」が決定される。

「古寺院地区画」の辺や角は任意に決められたわけではなく、塔と湧水の位置関係を中心に置いた「原型」を遷したものだ。いわば「写し」と言っていいだろう。



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13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する
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塔から「I」への方位ラインを四等分し、塔側から四分の一のところに中軸線が交わるように、また、傾きは東西の辺と平行(つまり南辺と直角)に引いてみる。

再びの疑問
塔の中軸線が南北軸であるのに対して、敷地の区画のほうをわざわざ斜めに傾けてある、その目的は言うまでもなく、中枢部中軸線を斜めに引くためだろう。中枢部の配置を左図のように推定した。

「塔からI」への方位ラインを四等分し、塔側から四分の一のところに中軸線が交わるように、また、傾きは東西の辺と平行(南辺と直角)に引いてみた。現存遺構では、「塔からI」の方位線の真ん中を中軸線が通過している。その現存遺構は古寺院区画の考え方が踏襲されたものだと推察される。「古寺院区画の原型」の外周は「塔からI」の中間を通過しており、外周と塔の中間に中軸線を設定したものが左図である。

しかしここであらためて疑問がわいてくる。この中軸線は何故、塔と真姿の池湧水を結ぶ東偏1度の中軸線(基軸)と平行ではいけなかったのだろうか。
①まず、10項で述べたように、3つの湧水を均等に取り込むように塔の場所が決定されたにもかかわらず、なぜその中軸線上に、南大門・中門・七重の塔・金堂・講堂を並べなかったのか、これが11項で宿題にした第一の疑問だった。
②そうは出来なかった理由があるとしても、それなら塔の東側に、東偏1度の中軸線(基軸)と平行になるよう中枢部中軸線をとればよいではないか。なぜ平行ではいけなかったのか、これが第二の疑問だ。

何故その両方ともができなかったのか。何か理由があるはずだ。その理由を見つけるために、もう一度、原型のほうに戻ってみよう。



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14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる
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①オレンジ:塔と真姿の池湧水を結ぶ中軸線(東偏1度)上に金堂・講堂を並べた配置図
②水色:塔と真姿の池湧水を結ぶ中軸線(東偏1度)と平行に中枢部中軸線を引いた配置図

機能と景観・中軸線を傾けたわけ
①を採用できない理由として考えられること:
・崖線の南100mあたりを流れる元町用水に沿って土地が最も低く、その南の元町通りに向かって中華鍋の底から縁に向かうような地形になっている。湧水の南側、現在の元町通りまでの150mほどは湧水による浸食を受けており、本格的な建築物が建てられない湿地だったと思われる。
・寺院経営の台所にあたる「大衆院:廚屋(くりや)、竈屋(かまどや)、維那房(いなぼう)、井屋、碓屋(うすや)」や「水源管理部署」はなるべく水源に近づけなければならないが、塔の北側に中枢部を置けばその背後はすぐに湿地帯となり、「大衆院」や「政所院:寺務を行う施設」を置くスペ-スがなくなる。
・「大衆院」「政所院」を置くために塔をさらに南に置けば湧水と塔は400~500mも離れてしまう。崖線の表情がわかる距離は350m位までといわれているが、その範囲をはるかに超えてしまい、塔と崖線の景観的意味が失われる。
・水を使う「大衆院」を塔の北側に置くことを優先し、中枢部を塔の西側に移す以外になかった。

②を採用できない理由として考えられること:
・崖線が「開いた扇の縁」のように湾曲しているため、水色の線では丘の連なりに対して斜めに入角してしまい、参道から眺めた景色が格好悪くなる。これは現地に立ってみるとよくわかる。

以上から、斜めの中軸線は機能と景観の両面重視でデザインされたプランだったことがわかる。

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