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22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか?
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武蔵国分尼寺が医療・福祉施設の機能を担って、悲田処や施薬処などの付属施設を併設していたとすれば、その用地はおそらく黒鐘の森の中だろう。あるいは東山道武蔵路沿いに、旅の途中に病や怪我で倒れた人のための救護所などがあったかもしれない。当然、洗浄のために大量の水や湯が必要だったろう。

滅罪の寺は医療・福祉の最前線?
741年の国分寺建立の詔は、「僧寺と尼寺を対にした造塔の寺を造営せよ」という勅命だった。それを受けて、東山道の東側に「崖」と「湧水」と「崖下の平地」を取り込む寺院地が区画され、浸水の心配のない場所を選んで七重の塔と僧寺と尼寺を建設する原計画が立てられた。僧寺と尼寺の間には仕切り線としての溝が掘られた。しかし間もなく計画が変更となり、尼寺が東山道の西側に鏡で写したように左右を反転させた形で遷された。それにともない僧寺も西へ移動させることになり、塔と北西の角「I」の真ん中に中軸線が交差するように移動させた。以上が筆者の仮説だ。

しかしこのような原計画の有無にかかわらず、尼寺は一体なぜ浸水危険地帯に造営されたのだろうか。

筆者はしばしば黒鐘の谷戸の鬱蒼とした森から尼寺を見渡してみる。明るく開けた伽藍地と、日の当たらない黒鐘の森の重い湿り気はあまりにも対照的だ。

尼僧たちは仏に仕える僧侶だっただけでなく、常に本物の死と向き合い、身を捧げて祈り働く前線のナイチンゲールだったのではないだろうか。武蔵国分尼寺が医療・福祉施設の機能を担って、悲田処や施薬処などの付属施設を併設していたとすれば、その用地はおそらく黒鐘の森の中だろう。同時に森と湿地は食用・薬用植物の採取・栽培地だったかもしれない。

医療のために中枢部を森と湧水に近づけたのだとすると、尼寺は予想以上に大きな広がりを持っているのかもしれない。21世紀の今も黒鐘の森は都立府中病院をはじめとする医療のメッカだ。谷戸の奥には看護学校寮もある。ここは今でも献身の魂が生きる森なのだ。

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21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈
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「草創期において、まず塔中心の区割り(古寺院区画)が計画され早くから着手されたが、その後、金堂中心の考え方に変わり計画変更。変更後、まず金堂の位置が決定され、金堂を中心に全体の区割りが決定されたが、塔の位置はかわらなかったため塔が遠くに取り残された。」市教委はこう説明してきたのだが・・。

「現存遺構」は「原計画」の踏襲では?
筆者は13項で「古寺院地区画」内に中枢部中軸線を想定してみたが、これを東山道まで拡大した寺院地の中で捉え直してみると、中枢部中軸線はなんと、そのど真ん中だ。そして金堂は「IBCJ」の対角線の交点付近にある。するとこの中軸線は、はじめから「IBCJ」の中心として設定されたのではないだろうか。

現存の遺構では、僧寺中枢部中軸線が「尼寺南西角」と「C」の真ん中を通っている。そうなると、「A-Dの溝」が掘られた時点においても、僧寺中枢部中軸線を挟んで「C」の反対側に尼寺を作る計画がたてられ、計画変更後の計画においても、僧寺中枢部中軸線を中心とする基本的位置関係が踏襲された、と考えるべきではないか。741年の国分寺建立の詔以降、このような「原計画」が存在していたのではないだろうか。

その後間もなく何らかの理由で尼寺が東山道の西側に遷されることになり、それに伴って僧寺中枢部も西へ平行移動することになった。変更後の計画において、隣接する尼寺と僧寺を隔てていたものは東山道だ。とすれば、「A-Dの溝」は、「隣接する尼寺と僧寺を隔てる溝」として掘られ、計画変更にともなって埋められた、と考えるのが最も自然ではないだろうか。

すると、741年の国分寺建立の詔を受けて、①「A-Dの溝」を隔てて僧寺と尼寺を隣接させようとしたのが原計画、②東山道を隔てて隣接させたのが変更後計画、という分け方が成り立つ。むろんどちらも塔の位置を基準点として、金堂が中央に位置するように区割りと配置が割り出されたもので、基本的な設計思想になんら変更はなかった、と筆者は考えている。

<参考資料>武蔵国分寺跡資料館解説シ-トNo.4「武蔵国分寺の建立」


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