So-net無料ブログ作成
検索選択

噴煙を上げる富士の背後に日が沈む(日が昇る)光景(2010.11.22) [コラム]

目のまわるような忙しさで、しばらく更新が止まってしまいました。

さて、富士山が国の史跡に指定されることになりました。
文化審議会が11月19日、文部科学相に答申をしたとのニュース。日本の古代から近代に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要として、8合目以上の山頂部と社寺などを指定するのだそうです。

武蔵国分寺の七重の塔と僧寺寺院地区画溝の南西の角を結ぶ線を延長すると富士山頂に到達し、その方角は冬至の日没の方角とピッタリ一致します。
奈良時代に国分寺建立の詔を受けて武蔵国分寺の伽藍配置が設計された当初から、富士山頂と冬至の日没の方角が強く意識されていたのは間違いないだろうと考えています。

しかし、武蔵国分寺から見えていた当時の富士山の姿は、現在のような穏やかで秀麗な姿ばかりではなかったようです。
奈良時代から平安時代の終わり頃まで、富士山はさかんに噴火を繰り返し、絶えず噴煙を上げていたのだとか。
富士山の噴火が正式な記録文書に残された最初は781年、奈良時代の終わりごろですが、それ以前、万葉集にも富士山の噴火をうかがわせる歌があるそうで、奈良時代の始めごろにも噴火をしたようです。
武蔵国分寺の設計・建設が行われていたころにも、富士山は噴煙を上げていたか、あるいは噴煙はおさまっていたとしても、噴火の記憶が新しい、そんな時代だったようです。

12月22日の冬至の日、太陽は富士山頂の真下に向かって、富士山の左の肩口から沈みます。
富士山頂に沈むのは12月の頭と1月の中ごろ。
運がよければダイヤモンド富士が見られますが、今年はどうでしょう。

今年の1月14日には、七重の塔跡から、富士山頂に沈む夕日の撮影に成功しました。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-10-21-2

12月の頭まで、あと10日ほど。
武蔵国分寺の全盛期、冬至前後の太陽が噴煙を上げる富士山の真裏に沈んで行く光景を、人々はどんな思いで眺めていたのでしょう。
今年は、私もそんな光景を想像しながら、冬至の日没を眺めてみようと思いますが、当時の人々の富士山への信仰は、現在の穏やかな富士山への畏敬とは違う、もっと深い畏れだっただろうことは想像に難くありません。

武蔵国分寺と富士山頂を結ぶラインをさらに西へ延ばしていくと、伊勢の二見ヶ浦に到達します。
二見ヶ浦からも富士山は見えるそうで、夏至の頃、夫婦岩の間に小さく見える富士山の真裏から、大きな大きな朝日が、富士山をすっぽり覆うように昇ってきます。
そんな瞬間をとらえた現地のポスターを写真に撮ったものを拝見したことがあり、目が釘付けになりました。

真っ赤な朝日の真ん中に、奈良・平安時代の噴煙を上げる富士山が見えたら・・・。
人々が抱くのは、畏敬というよりむしろ畏怖の念ではないでしょうか。
それは、富士山そのものに対する畏怖であるばかりでなく、そうした光景が見える伊勢二見ケ浦という土地そのものが信仰の場となっていったのだと思います。

このたび、国の史跡指定の答申がなされた場所は、富士山の八合目以上の山頂部と社寺だということですが、富士山は、富士山そのものだけでなく、それを眺める場所が信仰の場所となってきたということを、あらためて考えさせられました。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

目次 [武蔵国分寺の不思議を探るテキスト版目次]

新着記事:(11/7)
28.武蔵国分寺プランの独創性


ルポルタ-ジュ
塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る~今も生きる国分寺市都市計画第一号
畑中久美子著  (武蔵国分寺の立地と伽藍配置の謎を考える歴史ルポ)

武蔵国分寺の日の出日没画像.JPG
武蔵国分寺の冬至前後の日の出と日没。浅間山(府中市)の真裏から日が昇り、富士山の真裏に日が落ちる。

●A4サイズ横使い印刷に適したワ-ド版はこちら
地図資料 new!


<目次>
00-0表紙
00-1はじめに
00-2武蔵国分寺跡全体地図(国分寺市作成)
00-3武蔵国分寺四次元村・絵地図(畑中作成)
●00-4目次

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む・・・・・1
01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る -----1
02.寺院地の形と崖線の関係 -----2
03.七重の塔と湧水の関係 -----3
04.七重の塔と富士山の関係 -----4
05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す -----5
06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係 -----6

Ⅱ.草創期の区割りと配置・・・・・・・・・・・・・・・・7
07.古寺院地区画溝とは? -----7
08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? -----8
補足資料:古寺院区画決定手順推定略図
09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目 -----9
10.「古寺院地区画の原型」を割り出す -----10
11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう -----11
12.「原型」を左に傾ける -----12
13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する -----13
14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる -----14

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置・・・・・・・15
15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ)-----15
16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する -----16
17.参道口からの眺めをイメ-ジする -----17

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・18
18.尼寺の場所は浸水危険地帯では? -----18
19.尼寺伽藍地の不思議なかたち -----19
20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか? ---20
21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 -----21
<参考資料>武蔵国分寺跡資料館解説シ-トNo.4「武蔵国分寺の建立」
22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか? -----22

Ⅴ.もうひとつの七重の塔・・・・・・・・・・・・・・・23
23.もうひとつの七重の塔が出てきた! -----23
24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える -----24
25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物 -----25
26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと ---26

Ⅵ.今も生きている都市計画・・・・・・・・・・・・・・27
27. 塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた ---27
28.武蔵国分寺プランの独創性 -----28

---(以下、準備中)----------
29.今も暮らしに生きている古代道 ①僧寺への参道 -----29
30.今も暮らしに生きている古代道 ②堂道 -----30
31.今も暮らしに生きている古代道 ③四中北側の道 -----31
32.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-1 -----32
33.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-2 -----33

Ⅶ.国分寺崖線の湧き水の威力・・・・・・・・・・・・・34
34.2004年秋の大湧出 -----34
35.1991年秋の大湧出とJR新小平駅・隆起水没事故 -----35
36.野川公園「自然観察園」で湿地帯を体感する -----36
37.野川・人工堰を押し切ったあばれ川のエピソ-ド -----37

Ⅷ.水と塔を中心とした造営計画・・・・・・・・・・・・38
38.治水と利水の都市計画 -----38
39.聖武天皇と水 -----39

●おわりに -----40
●武蔵国分寺周辺の風景 -----41
●参考図書・資料・ホ-ムペ-ジ -----42, 43



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る(ワード版) [武蔵国分寺の不思議を探る(ワード版)]

ルポルタ-ジュ 塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る~今も生きる国分寺市都市計画第一号

地図資料 new!


ワード版 (A4サイズの印刷に適しています)

00-0表紙.doc
00-1はじめに.doc
00-2武蔵国分寺跡地図(国分寺市作成).doc
00-3武蔵国分寺四次元村地図.doc
00-4目次.doc

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む
01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る.doc
02.寺院地の形と崖線の関係.doc
03.七重の塔と湧水の関係.doc
04.七重の塔と富士山の関係.doc
05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す.doc
06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係.doc

Ⅱ.草創期の区割りと配置
07.古寺院地区画溝とは?.doc
08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか?.doc
古寺院区画決定手順略図.doc(07~12の補足資料)
09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目.doc
10.「古寺院地区画の原型」を割り出す.doc
11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう.doc
12.「原型」を左に傾ける.doc
13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する.doc
14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる.doc

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置
15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ).doc
16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する.doc
17.参道口からの眺めをイメ-ジする.doc

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって
18.尼寺の場所は浸水危険地帯では?.doc
19.尼寺伽藍地の不思議なかたち.doc
20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか?.doc
21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈.doc
<参考資料>武蔵国分寺跡資料館解説シ-トNo.4「武蔵国分寺の建立」
22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか?.doc

Ⅴ.もうひとつの七重の塔
23.もうひとつの七重の塔が出てきた!.doc
24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える.doc
25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物.doc
26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと.doc

Ⅵ.今も生きている都市計画
27.塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた.doc
28.武蔵国分寺プランの独創性.doc
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:学問

28.武蔵国分寺プランの独創性 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅵ.今も生きている都市計画

28.武蔵国分寺プランの独創性
28.JPG

塔と中枢部が他に類例を見ないほど非常識なまでに離れていることがいつも問題になってきた。しかし類型にあてはまらないことはそんなに問題なのだろうか。類型というのは後年作られたものだ。諸国国分寺建立の草創期において「塔が離れすぎているのは非常識」という常識があったかどうか、はななだ疑問だ。むしろ武蔵国分寺プランは、地域特性にマッチするよう精緻に練り上げられた都市計画なのではないだろうか。

国分寺造営は天皇杯コンペ?
武蔵国分寺は諸国国分寺のどことも似ていない、優れて独創的な寺院だということがわかってきた。もっとも他の国分寺同士もあまり似ていないものが多い。それぞれの地域の実情に合ったものが工夫され、またそうすることが求められたのだろう。
六十余の諸国に巨大タワーの出現を思い描いた聖武天皇の発想自体が、思えばあまりにも荒唐無稽だ。聖武発案の国分寺建立プロジェクトとは、天皇杯をかけた壮大なコンペティションだったかもしれない。
天平時代は優れた文化が海外から流入した刺激的な時代であった反面、災害や飢饉や疫病が蔓延し政情が不安な辛い時代でもあった。疲弊した諸国の民衆にとって、国分寺建立の大プロジェクトに借り出されることは、迷惑この上ない苦行だったに違いない。しかし反面、帰化人の入植が盛んで有力な豪族がひしめきあう武蔵国においては、このコンペに熱心に取り組もうという気運がたかまっていたのではないだろうか。
諸国国分寺の造営プランは中央からモデルプランが示されたと言われるが、そうだろうか。それに従ったにしては武蔵国分寺はあまりにも独創的だ。筆者は地元住民なので武蔵国分寺跡は日常の散歩道だ。遺跡地図と磁石を携えて寺院地のロケ-ションを確かめて歩くことはまことに楽しく、自然景観を巧みに取り込んだロケ-ションは、見れば見るほど精緻で美しく感動的だ。そして、これは1200年前の道筋なのではないかと思える場所が意外なほどたくさんある。地域特性にマッチするよう精緻に練り上げられた都市計画は、途方もなく長持ちであることに気づかされる。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

27.塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅵ.今も生きている都市計画

27.塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた
27.JPG

これまで見てきたことから、武蔵国分寺の七重の塔は、それが建てられた場所に意味があるということがわかった。まず周囲の地形的条件から塔の場所が選定され、その塔の場所を基準点として塔からの方位線上に寺院の区割りと配置が決定されている。塔の位置取りにどのような要件が備えられているかを見ることで、全体のコンセプトが浮かび上がってくる。

「好処」が全て取り込まれている
塔の位置取りに備わっている要件で最も中核的なものは以下の3つに絞れるだろう。
①3湧水を均等に背負える場所に塔が建っている。
②塔から見た冬至の日没の方位線・夏至の日没の方位線が東山道と交わるところを寺院地の北西角・南西角とし、北西角が崖線の崖上まで取り込めるように塔が配置されている。
③崖下の湿地帯を避けて主要施設を置けるよう、基準点となる塔を湧水から300m南に離してある。

崖線・湧水・東山道は動かすことができないが、任意に動かせる塔の場所を動かすことによって、寺院地の中に取り込みたいものを取り込めるように塔位置を決定、塔を基準点として全ての配置が決定されている。

尼寺を含む寺域全体を見渡すと、西の黒鐘の谷戸から東のリオン下湧水まで扇状に取り巻く崖線の連なりが横長に取り込まれ、塔と黒鐘の谷戸の間の広い空間に主要施設が配置されている。寺域に取り込まれた湧水を守るため、涵養域として重要な崖上まで確保されている。また僧寺は崖下の湿地帯を避けて主要施設が配置できるように南北の距離がたっぷりととられている。(尼寺はそうではなく、選地に無理が見えるが)

この結果、武蔵国分寺の敷地は東西に900m以上、南北に600mという広大なものとなり、諸国国分寺のどこにも似ていない国分寺となった。寺域の中には、この地の優れた自然景観「好処」がすべて取り込まれており、それを背景として建造物が絶妙に配置されている。「必ず好処を選べ」という聖武天皇のコンセプトが見事に実現されたというわけだ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと
26.jpg

礎石が固め置かれたそばに土地の高まりが見え、古くから「何かある」と言われてきた場所に、21世紀の初頭、レーザー探査をかけたところ塔の基壇が発見された。掘ってみると傑出した出来ばえの版築が出現。しかし、基壇の上に塔が建てられた痕跡がみつからない。精魂を傾けられながら放棄された「もうひとつの塔跡」の存在は、塔が本来あるべき場所を物語る。これこそ長年の謎を解く大発見だ。

福正の仕事について考える
24項と25項で、もうひとつの塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

草創期と仮定するためには、尼寺併設令が出た後も一体的計画が打ち出されないまま、相当長らく建設が続いていたことが前提となり、また、発掘調査の結果、数少ない出土品は創建時の仕事でないことを示すものばかりだったことから、可能性は極めて低い。

そうなると「元の塔の焼失後、在任中の国司のもとで焼失塔の隣りに基礎工事が行われたが、国司が任期満了で帰京するとともに再建計画は頓挫、そこに壬生吉士福正が願い出て正しい場所に再建した。」という村山光一先生の再建時説が断然有力だ。もっとも、焼失塔の隣りに再建を試みたのは福正自身、作り直したのも福正自身である可能性はあるかもしれない。

なお国分寺市教委は、東大寺のようなツインタワーであった可能性をまだ捨ててはいない。なるほど、福正の財力と発想をもってすればあり得なくはない。しかし、塔の中心と中心がたった55mしか離れていない2基の塔が並び立つ景色はどう考えても美しくない。願わくば福正さん、これだけは勘弁してねと言いたい。

ところで塔跡2には今日まで土壇の高まりが残っていたらしいが、福正が隣りの立派な土壇を利用しなかったはずはない。基壇は化粧直しされて舞楽を奉奏する土(石)舞台として活用されたのではないだろうか。基壇西側から憧竿(どうかん)の穴が見つかっている。東側の調査はこれからだが、左右対象な場所から憧竿跡が見つかるのではないかと期待している。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物
25.jpg

作りかけた塔が断念された時期として、より有力なのが再建期だ。続日本後紀(しょくにほんこうき)の記録によれば、835年、塔は神火(落雷)で焼失し、10年後の845年(国分寺建立の詔からおよそ100年後)、男衾郡(おぶすまぐん)の前大領(さきのだいりょう)壬生吉士福正が再建を願い出て許された、とある。

時期と理由② 再建期と仮定した場合
私費で塔を再建したいと申し出た壬生吉士福正は男衾郡の元郡司、余程の財力と統率力を併せ持ち、信仰にあつく天皇への忠誠心の強い人物だったに違いない。二人の息子の一生分の税を一括して払いたいと申し出て認められたというエピソ-ドの持ち主だが、あまり才には恵まれなかったらしい息子たちの行く末が余程心配だったのか、しかし、ケタ違いの発想と次の100年を見通す眼を持つ人物ではあったろう。

塔跡2で検出された版築は専門家が見ても傑出した出来栄えだそうで、筆者も美しい縞模様に目を見張った。これを作った人物は、焼け落ちた塔の隣に元の塔とそっくりな新品の塔を立派に作ることが道にかなうと信じ、大変な意気込みで取り組んだのかもしれない。

しかし塔の場所は、元の場所にこそ造塔の意味がある。隣に建てたのでは寺院地全体の配置と整合しない。村山光一先生のお説によれば「元の塔が焼失してから10年の間に、在任中の国司のもとで塔再建の基礎工事だけは行われたが、国司は2~3年の任期で帰京、再建計画は頓挫したままになっていたところに壬生吉士福正が願い出て、正しい場所に再建したのではないか。」ということだ。壬生吉士一族は100年前の武蔵国分寺の創建にもかかわりを持っていたのかもしれない。

それにしても一豪族が私費で再建に踏み切るのは余程のことだ。夢のお告げでもあったのだろうか。100年前の武蔵国分寺造営の最高責任者は、国司・多治比真人広足。広足が福正の夢枕に立ったかどうかは知らないが、100年の時を越えた継承のドラマ、私に才さえあれば伝奇小説のひとつも書けそうな題材だ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える
24.jpg

版築土中から瓦が出てきたり、再建期の土器が出てきたり、数少ない出土品は、草創期の遺構である可能性を低めるものばかりだそうだが、時代を特定する遺物があまりにも少なすぎて断定には至らない。この塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

時期と理由① 草創期と仮定した場合
塔跡1の50mほど西側に、崖線の連なりが最も美しく見えるポイントがあり、塔跡2がまさにその場所だ。尼寺と一体的な計画を前提としない段階であれば、塔が塔跡1以外の場所に計画されていてもおかしくはない。尼寺を含まない740年勅令から翌741年の尼寺併設令までの間に基礎工事がここまで進んだということはありえないが、741年の尼寺併設令が出た際「尼寺は別途しかるべき場所に作ればよい」として、塔跡2での工事が相当に長らく続行されていたと考えれば、この場所に塔跡があってもおかしくはない。

しかし、国分寺建立の詔の趣旨は二寺一体計画だ。諸国国分寺の多くにおいて、二寺は一体的計画とはならなかったようだが、武蔵国分寺においては、勅令の趣旨を遵守すべきとする意見が優勢となり、ほぼ完成した基壇に上物を建築することをついに断念。塔を東に新しく作り直すことで、七重の塔・僧寺・尼寺一体的な計画を作成しなおした、ということは考えられる。

何故、塔を東に移動させる必要があるかというと、尼寺を含めた一体的な計画とするためには、当然、寺院地を東山道まで拡大する必要があり、その方法は、塔から見た夏至の日没・冬至の日没の方角が東山道と交わるところを寺院地の北西角・南西角とする方法だ。ところが塔跡2の場所からこの方向決めを行うと、夏至の日没の方位線が崖の中腹で東山道と交わってしまい、東山道寄りの崖線を崖上まで取り込めなくなってしまう。そこで計画を根本的に練り直し、塔を新しく作り直した。以上のように考えれば、「創建塔を中途で断念し作り直した」という仮説に一応の説明はつく。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

武蔵国分寺はなぜここにあるのか~国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代」を受講して(2010年11月3日-2) [コラム]

文化の日、いずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)の続きです。素晴らしい基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告については、こちらにレポート:
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-11-04

小野本さんの報告に続いて、近江俊秀先生(文化庁記念物課文化財調査官)、佐藤信先生(東京大学大学院教授 古代史)の講演も大変聞きごたえがあり、面白かったです。いただいたレジュメも、貴重な資料が満載!

近江俊秀先生は、そのお名前から近江の方なのかと思ったら、宮城県のご出身だそうです。奈良県立橿原考古学研究所に長くいらして、奈良の研究者が皆、邪馬台国やら古墳やらの研究をしている中、近江先生はただ一人、ひたすら道(古代道路)の研究をなさってきたとのこと。奈良では道についての講演をしてもさっぱりウケないけれど、国分寺のいずみホールが満席ぎっしりなことをたいそうお喜びでした。
宮城出身の方が奈良でただ一人、道の研究を続けてこられたのは、中央と地方の関係、東国や東北など中央から見た辺境との関係に最大の関心がおありで、それを結ぶ道の研究をなさっているのかな、と思いました。

ご講話の内容は、古代官道はなぜ、まっすぐで広いのか、いつごろ、何の目的でこのようなものが作られ、どのような機能があったのか、というお話でした。
七道駅路の道路網は7世紀後半の天武天皇の発案により、律令制度の完成と中央集権の確立を目指し、中央と地方を結ぶ全国的な道路網として敷設されたもので、古代道路の総延長は6300キロメートルにもおよぶのだとか。これは、田中角栄の「日本列島改造論」の時代に建設された第一期高速道路網のうち、北海道を除く総延長6500キロメートルに匹敵するとのこと。

まっすぐで広い道の役割は、外国からの使者に対して立派な道路をみせつけることで国力を示すこと、都と地方を結び租税を最速最短で運ぶことなどの他、直線の道路に沿って農地を条理の区画で開墾することで生産性を高め、租税を確実に徴収する役割もあったとのこと。つまり、道路整備は農業基盤整備と一体であり、これはまさに、天武天皇の「日本列島改造計画」であった、というお話でした。

続いて佐藤信先生のご講和。テ-マは「東山道武蔵路と古代東国」。
倭の王権が東国(関東)に勢力をのばす過程において東海道や東山道が形成され、東国は倭王権の軍事的基盤であった。772年に武蔵国は東山道から東海道に所属がえになったけれど、それ以前も以後も、武蔵国はもともと東山道と東海道を結ぶ橋渡しの場所であった。東国は倭王権の軍事的基盤であったことによって過重な負担から関東が疲弊し、そのことが原因となって関東に武士集団がおこった、など。

武蔵国の国府が、東山道の本道に近くて強大な勢力を誇っていた北武蔵ではなく、本道から遠く離れた南武蔵に置かれたのは不思議なことですが、北武蔵と南武蔵の勢力争いとして起こった「武蔵国造の反乱」において、大王の力を得た南武蔵が勝利したことで南武蔵に屯倉(大王直轄領)が置かれ、そのことが国府誘致につながったというお話も大変興味深いものでした。

南武蔵に国府が置かれなければ、「武蔵国」の国分寺は別の場所に建立されることになったはずです。
武蔵国分寺はなぜここにあるのか、というテーマを考える上でも、大きなヒントをいただいた講座でした。
「武蔵国造の反乱」において南武蔵が勝利しなければ、南武蔵の郡衙につながる道はあったとしても、官道としての東山道武蔵路が敷設される理由がなかった、ということが言えるのかもしれません。

東山道武蔵路という官道が、北武蔵と南武蔵の間のすさまじい誘致合戦、あるいは戦闘の末にようやく引っ張ってきた道だとすれば、天皇のお膝元たる南武蔵の権威の象徴である「武蔵国分寺」は、広くまっすぐで天皇の居る都へと続く東山道武蔵路沿いの、必ずや道路に接した場所に建てられなければならなかったのではないでしょうか。

741年の国分寺建立の詔を受けて、最初に塔を中心とした寺院地が区画されたとする「古寺院地区画溝」は、東山道武蔵路からなんと150mから200mも離れています。東山道に接する区画溝は後年になって掘られたものだとするのが定説になっていますが、そうなると、武蔵国分寺の当初寺院地区画を東山道から離した理由がわからない。

それよりも、武蔵国分寺の区画設計は、はじめから寺院地の北西と南西の角が東山道に接するように計画され、「古寺院地区画溝」は、僧寺と尼寺をわける溝と考えたほうが合理的なのではないか、と思うのです。
つまり、当初は東山道の東側に接するように、七重の塔と僧寺と尼寺がすべてセットで計画されていた。それがなんらかの理由で(おそらくは、尼寺が固有の湧水と薬草等を栽培する広い敷地を必要としたという理由などで)尼寺を東山道の西側に遷し、東山道の東側には僧寺と修理院(僧寺・尼寺共通の鍛冶工房)を併設するよう設計変更が行われたのではないか、と筆者は考えています。

東山道武蔵路を南武蔵まで引っ張ってくるまでの経緯を考えると、南武蔵の権威の象徴である「国分寺」を東山道から切り離して設計するはずがない。はじめから東山道に接する場所に設計されていなければならなかったはずです。
ましてや、四小跡地の東山道遺構から、疫神を退散させる祭祀の痕跡らしきものが出てきたとなれば、道は「通路」であるだけでなく、聖域と外界を隔てる「結界」として機能していたことが伺えます。
こうした祭祀が平安時代になってにわかに始まったと考えるよりは、武蔵国分寺ははじめから、結界としての東山道武蔵路に寺院地の角を置くように設計され、後の設計変更においてもその設計原理が踏襲されたと考えるべきではないでしょうか。
こう考えるひとつの傍証として、尼寺の寺院地は、東山道武蔵路には一箇所も接していないのです。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

四小跡地の東山道武蔵路の特殊遺構について~小野本敦さんの報告から(2010年11月3日) [コラム]

今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG

東山道武蔵路(旧四小)特殊遺構.jpg

第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。

埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)

特殊遺構図版.jpg

「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。

土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。

東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。

さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。

基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。

家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。

旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25-1

しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての意味をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。

ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための”仕掛け”に力を入れて行くとのことです。

小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問