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08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか?
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「古寺院地区画溝A-D」の位置と傾きの角度、「B」「C」の位置はどうやって決められたのだろう。そこで試しに、塔と真姿の池湧水を中軸として3つの湧水を均等に取り込むように「黄色い枠」を書いてみる。すると「ピンクの枠」は、「黄色い枠」を左に傾けると出来る形だということは一目瞭然だが、これを少し理屈で説明しよう。

塔を中心とした設計原理
05で述べたように、寺院地の北西と南西の角は、塔から見て夏至の太陽や冬至の太陽が沈む方角が東山道と交わる点を定め(「I」と「J」)、そこにむかって区画溝を掘ることによって角地を形成したものだ。古寺院地区画(ABCD)における北西と南西の角は、いずれも塔からの12方位ラインには乗っていないが、北辺の溝・南辺の溝ともに、西に延長していくと「I」・「J」に到達するように溝の方向が定められている。

このことから、塔から見た日没の範囲を示す「I」地点と「J」地点は、「古寺院区画」が計画された当初から強く意識されており、区画全体を決定する基準点となっていたことがうかがえる。言い換えれば、塔の置かれた場所が全ての計画の基準点となって、全体設計が行われたということだろう。

その塔の場所は03で述べたように、3つの湧水との位置関係において絶妙な一点が選ばれている。

ならば、古寺院地区画の立案にあたっては、まずは左図の「黄色い枠」のようなエリア、すなわち、塔と真姿の池湧水を結ぶ線を中軸として塔の背後に三つの湧水を均等に取り込む「原理的なエリア」とも言うべきエリアがまず想定され、この「黄色い枠」の南辺を西に延長すると「J」地点に到達する角度まで枠を左に傾けるという操作が行われたのではないだろうか。続いて北辺を延長すると「I」に到達するように区画が引き直され、それによって、古寺院地区画の「角の場所」と「辺の角度」が決定されたのではないだろうか。

ならばその「原理的なエリア=古寺院地区画の原型」とは、具体的にどのようなものだったのだろうか

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07.古寺院地区画溝とは? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

07.古寺院地区画溝とは?
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僧寺中枢部の中軸線の少し西側から、一旦掘られて埋め戻された溝跡が出てきた。武蔵国分寺の草創期には、「ピンクの枠」のような寺院地区画が計画されていたと考えられている。

聖武天皇による勅令の変遷
①天平9年(737年)3月
「続日本紀(しょくにほんぎ)」に、諸国に釈迦仏像と菩薩像の造仏と大般若経の書写が命じられた、という記録がある。(仏像を安置するためには金堂も建立されなければならないだろう。)

②天平12年(740年)6月
「続日本紀」に、諸国に法華経の書写と七重塔の建立が命じられた、という記録がある。(造仏と寺の建立の勅命に七重塔建立が追加された)

③天平13年(741年)2月
国分寺建立の詔が出される。(七重の塔と寺の建立に尼寺をセットで建立せよという勅命)
わずか4年足らずの間に次々と追加命令が出ている。②と③の間はわずかに8ヶ月だ。矢継ぎ早の追加命令から、当時の天然痘の流行や凶作による荒廃、巨大地震などの天変地異が余程深刻で、危機対策に迫られていたことがうかがえる。

こうした変遷を経て、最終的には現存の遺構の場所(尼寺は東山道の西、僧寺中枢部は東山道と塔の中間あたり)に創建されたわけだが、現存の僧寺中枢部中軸線の少し西側に、一旦掘られて埋め戻された区画溝跡(A-D)が検出されている。これは武蔵国分寺の草創期、現存の僧寺伽藍地区画よりも古い時期に区画された溝と考えられている。それから間もなく、僧寺中枢部を東山道寄りに造営するよう計画変更が行われ、それにともない「A-D」の溝のみが埋め戻され、北辺、東辺、南辺の区画溝は、計画変更後の区画にそのまま組み入れられたものと考えられている。


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