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-| 2010年10月16日 |2010年10月17日 ブログトップ

02.寺院地の形と崖線の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

02.寺院地の形と崖線の関係
02.jpg

このあたりの国分寺崖線は、寺院地を取り囲むように湾曲しており、しかも地図上で右肩上がりに連なっている。寺院地はその連なりに沿いながら、崖線を取り込むように形成されている。

崖線のラインに沿った区画になっている
崖線の連なりが、開いた扇の縁のように湾曲しており、そのラインに沿うように寺院地全体の区画が形成されている。崖から北はいずれの箇所も100mほど寺域に取り込まれており、また、崖が東西方向に600m以上も取り込まれている。地図上で右肩上がりに連なっている崖線のラインに、寺院地全体が平行するような形になっている。実際にハケ下の寺院地を歩いてみると、どこに立っても崖線が正面に見えるのだ。

寺院地が広大な原因は塔にあり?
寺院地の南北方向550~600mもの長大さについては、①崖上まで寺院地に取り込まれていることと、②崖下から南、現在の元町通りまでの150mほど、本格的な建築物が建てにくい湿地が取り込まれているために主要施設はそれより南にしか建てられなかったこと、を理由にあげることで一応の説明がつけられるが、東西方向にこれほど長くなっているのは何故だろう。
崖線の約300m南にある塔は、寺院地の西辺・東山道から400m以上も離れている。なぜこれほど離れているのかというと、塔が真姿の池湧水のほぼ真南を選んで建てられたからだろう。湧水から塔へ生活道路をつたって最短ル-トで向かうと、まさに南北であることがわかる。東山道と湧水が400m離れているから東山道と塔も400m。しかもこの塔は、寺院地の北西の角と南東の角を結ぶ対角線上に位置している。
そうなると、湧水と塔の位置関係が寺院地の広大さを決定づけているのではないかという想像がつく。そこで、塔と湧水との関係、塔と東山道との関係に着目して調べてみよう。

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01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る
01.jpg

広大すぎる寺域や離れすぎの塔など謎に満ちた武蔵国分寺。尼寺を含めた全体の中央に僧寺金堂があることから、金堂を中心に区割りが作られたのではないかと言われているが、その金堂の位置はどうやって決められたのか。ここでは七重の塔を中心とする方位から、寺院地区画と建物配置の設計原理を探ってみたい。

武蔵国分寺の不思議
①七重の塔と中枢部が異様に離れている。
②僧寺寺院地が並外れて広大、しかも五角形。
③主要施設の中軸線の向きがバラバラ。
・僧寺中枢部中軸線:おおよそ西偏7度。
・七重の塔:現存礎石の並びから判断すると、真北もしくは東偏1度を背にしている。
・東山道武蔵路:おおよそ東偏2度。
・尼寺中枢部中心軸:およそ西偏2度
④僧寺北辺の溝の折れ曲がりは何のためか。
⑤尼寺伽藍地は歪な四角形。伽藍地の東辺が東山道に沿わずに、北上するほど道路と離れて行くという奇妙な角度を持っている。
⑥尼寺は崖線の際にあまりにも近く、大湧出の際、北西の湧水群からの直撃を免れられない地形だ。寺院造営に適した場所とは思えない。
⑦「もうひとつの七重塔」まで出てきてしまった。

寺院地の形と地形の関係を眺めてみよう
寺院地は、崖線の裾野に湧き出る湧水の崖上まで取り込んでいる。加えて、現在の元町用水から元町通りに向かって地形が中華鍋の底から縁に向かうようになっていることから、湧水の南側150mほどは湧水による浸食を受けており、本格的な建築物が建てられない湿地だったと考えられる。こうしたエリアを取り込んでいることが異様に広い寺院地が形成された一つの理由だったと思われるが、それにしても、寺院地内の施設の位置や、奇妙な形をした寺院地の角は何を元にして決定されたのだろうか。まずは寺院地の形と地形の関係がどうなっているかトクと眺めてみよう。




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00-4目次 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る~今も生きる国分寺市都市計画第一号

<目次>
●00-0表紙
●00-1はじめに
●00-2武蔵国分寺跡全体地図(国分寺市作成)
●00-3武蔵国分寺四次元村・絵地図(畑中作成)
●00-4目次

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む・・・・・1
01.塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る -----1
02.寺院地の形と崖線の関係 -----2
03.七重の塔と湧水の関係 -----3
04.七重の塔と富士山の関係 -----4
05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す -----5
06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係 -----6

Ⅱ.草創期の区割りと配置・・・・・・・・・・・・・・・・7
07.古寺院地区画溝とは? -----7
08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? -----8
09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目 -----9
10.「古寺院地区画の原型」を割り出す -----10
11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう -----11
12.「原型」を左に傾ける -----12
13.古寺院区画の中枢部中軸線を推定する -----13
14.東偏1度の基軸に合わせた別の配置を仮想してみる -----14

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置・・・・・・・15
15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ)-----15
16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する -----16
17.参道口からの眺めをイメ-ジする -----17

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・18
18.尼寺の場所は浸水危険地帯では? -----18
19.尼寺伽藍地の不思議なかたち -----19
20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか? ---20
21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 -----21
22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか? -----22

Ⅴ.もうひとつの七重の塔・・・・・・・・・・・・・・・23
23.もうひとつの七重の塔が出てきた! -----23
24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える -----24
25.七重の塔を再建した壬生(みぶの)吉士(きし)福(ふく)正(しょう)という人物 -----25
26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと ---26

Ⅵ.今も生きている都市計画・・・・・・・・・・・・・・27
27. 塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた ---27
28.武蔵国分寺プランの独創性 -----28
29.今も暮らしに生きている古代道 ①僧寺への参道 -----29
30.今も暮らしに生きている古代道 ②堂道 -----30
31.今も暮らしに生きている古代道 ③四中北側の道 -----31
32.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-1 -----32
33.今も暮らしに生きている古代道 ④元町通り-2 -----33

Ⅶ.国分寺崖線の湧き水の威力・・・・・・・・・・・・・34
34.2004年秋の大湧出 -----34
35.1991年秋の大湧出とJR新小平駅・隆起水没事故 -----35
36.野川公園「自然観察園」で湿地帯を体感する -----36
37.野川・人工堰を押し切ったあばれ川のエピソ-ド -----37

Ⅷ.水と塔を中心とした造営計画・・・・・・・・・・・・38
38.治水と利水の都市計画 -----38
39.聖武天皇と水 -----39

●おわりに -----40
●武蔵国分寺周辺の風景 -----41
●参考図書・資料・ホ-ムペ-ジ -----42, 43


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00-1はじめに(塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

 2003年12月、真姿の池湧水の崖上に計画された大規模マンション建設がついに着手され、泉につながる水みちの上に巨大な鉄の基礎杭が103本も打ち込まれました。直径1mを越える鋼管杭の先端には直径2mの羽根がついており、その羽根を回転させることで関東ローム層とその下の砂礫層を掘削して杭を貫入させる方式が採られました。基礎工事に続いて躯体工事も着々と進み、2004年の盛夏を待たずして、ハケ下の史跡から見渡す崖線樹冠の上にマンション躯体がニョッキリと姿を現しました。太古より守られ続けてきた国分寺崖線の連続した緑の景観はここへ来てついに分断されてしまったのです。

 天平時代、ここが武蔵国分寺造営の地として選ばれたのは、この地がまさに四神相応の地としての条件を全て兼ね備えていたからと聞きます。北の玄武(泉湧く丘)、東の青竜(野川)、南の朱雀(国府)、西の白虎(大道=東山道武蔵路)の全てが揃う、まさに好処そのものだったのです。

 私たちは七重の塔跡から北に望む崖線の、まさしく真正面にマンション躯体が姿を現したのを見て、マンションの真下に湧く真姿の池湧水と七重の塔が、まさに南北の位置関係にあることを実感しました。村山光一先生のお説のとおり、なだらかに連なる緑の崖線景観と湧水と塔とはまさに不可分の関係であったこと、そのような位置関係になるように塔の場所が選ばれていたことを実感しました。

 1200年もの間、壊されずに守られてきた歴史的景観が私たちの時代に壊されてしまった。筆者はそのことに少なからず衝撃を受けました。そのことを契機として、地元住民である筆者は、方位磁石と遺跡地図を片手に、ひたすら史跡周辺を歩き、1200年前、どこに何があったのか、その位置関係がどうなっているのかを確かめてまわりました。その結果、武蔵国分寺の区画や主要施設の位置が、ことごとく塔からの方位によって説明できることに気づきました。

 筆者は古代史や考古学について、興味はあるが全くの素人であります。国分寺市の教育委員会が編纂した郷土史解説本や遺跡発掘調査報告など、一般市民の手に届くものは出来る限り目を通し続けていますが、「武蔵国分寺の区割りと配置が塔からの方位によって説明できる」とする解説にはまだ遭遇しておりません。そんな風に見た人がいなかったのか、それとも既に否定されていることなのか、そのことさえ筆者は知りません。

 ただ、筆者は日頃、音楽や芸能に携わっているため、舞台づくりを自分の本分と考えて暮らしています。筆者にとって、自然景観は一種の舞台に見えます。等高線の書き込まれた地形図を見ても一種の舞台配置図に見えてしまい、航空写真のような鳥瞰図が目に浮かびます。そして舞台づくりに携わる者特有のクセでしょうか、モノの配置や動線は、前後左右や上下だけでなく、円や対角線で見たり、実際には見えていない角度から視るクセがあります。

 今、筆者の頭の中には、崖線の裾野に広がる古代寺院の景観がコンピュ-タ・グラフィックのように浮かび、現在の史跡周辺の風景とオ-バ-ラップしています。脳ミソとはなかなか便利なものです。この頭の中の映像を、巨大な体育館のような空間を使って、空気の中に浮かび上がらせることができたらさぞかし面白いだろう、そんな博物館が出来たらいいのにな、と夢を描いているのですが、夢は夢として、今は言葉と図を使って描くことにトライしてみようと思い立ちました。

 国分寺建立の主人公、聖武天皇がその時どんな夢を夢見たか、それを浮かび上がらせることが出来たら面白いですね。怖いもの知らずの素人だからこそ、歴史を今の暮らしに引き寄せた紐解き方があってもいいのではないかと思っています。

 読んでくださる方を最後まで引き付けられる自信はまるでありませんが、お付き合いいただけるところまでお付き合いくださればありがたく思います。
2006年夏 国分寺・名水と歴史的景観を守る会 畑中久美子

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