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11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

11.「原型」のカタチをじっくり眺めてみよう
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3つの湧水を均等に取り込むように塔の場所が決定されたのに、なぜその中軸線上に、南大門・中門・七重の塔・金堂・講堂を並べなかったのだろうか?

塔と湧水の距離はたっぷり300m
釈迦三尊像のように並んだ湧水を背後に取り込むことのできる一点を選んで塔が建てられたからには、中央の湧水と塔を結ぶ中軸線の左右に均等な寺域が用意され、その中軸線上に、大阪の四天王寺のように南大門・中門・七重の塔・金堂・講堂を並べれば、これ以上はないほどの理想的な配置となりそうなものだ。塔と湧水は300mも離れており、間に中枢部を形成するに十分なスペ-スがあるように見える。

奈良時代の寺院には四天王寺式の配置は既に見られないようだが、それなら塔の近くに中枢部を置き、中軸線の向きを塔と一致させる配置だってできそうなものだ。

しかし、古寺院地区画が斜めに傾けられたということは、そこに配された中枢部中軸線は、東辺と西辺に平行(南辺に直角)であったはずだ。

いったいなぜ中枢部中軸線は斜めにされなければならなかったのだろうか。

この疑問については後ろの14項であらためて考えることにして、まずはこの「黄色い枠」を左に倒して「ピンクの枠」に遷し変える道筋をたどってみよう。

最初の問題は、「ピンクの枠」は「黄色い枠」のどこを支点として左に傾けた結果なのか、ということだ。塔を支点として左回転させたものなら青点線(ピンクの枠の縦割り)は塔と重なるはずだが、重なっていない。そうなると支点になりうるのは南東の角だ。この角を支点として「黄色い枠」を左に傾けることでどうやって「ピンクの枠」に遷しかえることが出来るか、設計者がたどったであろう道筋をたどってみよう。






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七重の塔跡から、富士山頂に沈む夕日の撮影に初成功!(2010年1月14日)

武蔵国分寺・七重の塔跡から富士山が見えることはあまり知られていないようです。夏場は生い茂る木立の陰になって見えず、晩秋、木々の葉がすっかり落ちてから厳冬期にかけてのわずかな期間だけ、木立の隙間から富士山を望むことができます。春先ともなると、西の空に霞がかかってしまうので、東京から富士山がくっきりと見えるのはこの冬の間だけです。

冬の早朝は、晴れてさえいれば、毎日のようにクッキリと富士山の姿を見ることができますが、午後になると霞んでしまうことが多く、日没時刻にも富士山が見えることは、そう多くはありません。昨日も午後は晴れていたのに、日没直前の時刻になって急に曇ってしまいました。
国分寺から見える富士山頂に夕日が落ちる日は、冬至をはさんで、12月の頭と、1月半ばあたりの2回です。きょう(1/14)がちょうどその日にあたり、日没時刻にも西の空が晴れていたので撮影に成功しました。ハケ下の七重の塔跡からの撮影に成功したのは、私にとってははじめてのことです。

200100114富士山頂夕日-1.JPG

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200100114富士山頂夕日-3.JPG

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はっきりとした「ダイヤモンド富士」と言えるほどの光線は、カメラでは捉えられませんでしたが、燃えるような夕日が富士山頂に乗っかっていました。
写真で撮るととってもちっちゃいですが、たしかに、大きなまん丸の夕日が富士山頂に乗っかっていました。

明日以降は、富士山の向かって右側の稜線に沿って、夕日が転がり落ちるように沈んで行くのが見えるかもしれません。
すべては夕刻のお天気次第です。

犬と散歩中の女性が、撮影している私の姿を見て足を止め、富士山のほうを不思議そうに眺めていました。そして私に、「あれは富士山ではないですよね?」と声をかけてきました。
何年もこの場所を散歩しているけれど、富士山さんが見えることには今まで気づかなかったとのこと。ここから富士山が見えるとは夢にも思わなかったので、富士山みたいな形の大きな屋根かと思って私に聞いたのだそうです。
ハケ下の場所から、こんなに大きく富士山が見えることにびっくりしていました。
富士山って、本当に不思議な山です。写真に写してしまうととっても小さいのですが、肉眼ではとっても大きく見えるのです。

「七重の塔」と、「国分僧寺の寺院地南西の角」を結ぶラインをずっと延長していくと、ぴったり富士山山頂に到達します。そしてその方角は、冬至の太陽が沈む方角とぴったり一致します。
おそらく七重の塔と寺院地南西の角の位置は、そうなるように選ばれた場所なのだろうと思います。
七重の塔は、真姿の池の真南に位置し、真姿の池と七重の塔をむすぶ正南北ラインを南に延ばして行くと、府中の「坪の宮」という国造を祀る小さな社に到達します。「坪の宮」は東を向いており、その真東の先には大国魂神社の本殿があります。

こうした不思議な配置の中心に七重の塔があるのです。
つまり、七重の塔はそういう場所を選んで建てられた、いわばパワースポットのような場所だったのではないでしょうか。
その七重の塔跡から今でも富士山が見えるのは、ちょっと奇跡的ですよね。

ちなみに、七重の塔と富士山頂を結ぶ線をずっとのばして行くと、伊勢の二見ケ浦の夫婦岩に到達します。夫婦岩は、夏至の前後、岩の間から太陽が昇ることで有名です。
つまり、伊勢神宮と武蔵国分寺は、富士山をはさんで真裏同士の関係だというのは、とっても興味深いことですね。

興味のある方、こちらの地図をのぞいてみてください。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&gl=jp&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=117806467916842607597.0004656cac53b18675c6c&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&ll=35.232159,137.927856&spn=2.835597,2.702637&z=8





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10.「古寺院地区画の原型」を割り出す [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

10.「古寺院地区画の原型」を割り出す
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実際に計画されていた「古寺院地区画」の左半身のサイズと湧水の位置を基にして、「古寺院地区画の原型」の縦・横のサイズを割り出してみよう。

東西の幅と南北の長さを想定する
前項(09)で割り出した左半身の幅(赤矢印の長さ)を東偏1度の中軸線の右側にも取って、あわせて「黄色い枠」の南辺とする。これで「古寺院地区画の原型」の東西の幅が想定された。

次に南北の長さを想定しよう。これは湧水の北側の崖地と崖上をどのくらい取り込むかによってかわってくるが、とりあえず、3つの湧水の中で一番北に位置する「リオン湧水」の崖上平坦部に差し掛かるところまでを南北の長さと仮定し、東辺をこの長さとした。(崖上平坦部のはじまりは地図上の等高線から判断)
ちなみにこの東辺の長さは「I-J」とほぼ同じ長さとなる。

北辺については、中軸線から西を延長すると「I」に到達するように、中軸線のところで折り曲げておく。これを「古寺院地区画の原型」と仮定しよう。
ここまでをもう一度整理すると、
①実際に計画されていた「古寺院地区画」を北辺の折れ曲がりのところから縦半分に割り、
②その「半身のサイズ」を基にして「原型」の東西幅を割り出し、
③湧水の位置を基にして「原型」の南北の長さを想定する。

こうして出来た「黄色い枠」のエリアが「古寺院地区画の原型」だったと仮定し、ここから「古寺院地区画」に遷し(移し)かえるには、どこを支点として傾け、どのような道筋を通ったのかをたどってみたい。

が、その作業をはじめる前に、原型と推定されるこのカタチをあらためてトクと眺めてみよう。

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09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

09.まずは古寺院地区画北辺の折れ曲がりに着目
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なんとも不思議なのは、寺院地北辺の奇妙な折れ曲がりだ。この折れ曲がりは一体なんの印だろう。そして何故この場所で折れ曲がっているのだろうか。

古寺院地区画の原型の幅を割り出す
仮に「B」から「I」を直線で結んだとしても、湧水の北側に確保された敷地が特に狭くなるわけでもない。この折れ曲がりは一体なんの印で、何故この場所で折れ曲がっているのだろうか。
東山道まで拡大された寺院地(IBCJ)の中でこの折れ曲がりを見ると、中心から大きくはずれている。だが、古寺院地区画(ABCD)の中でこの折れ曲がりを見ると、北辺の真ん中近くで折れ曲がっていて、なんだかカメムシみたいなカタチだ。古寺院地区画の北辺の真ん中近くで折れ曲がっているとなれば、前項(08)で描いた「黄色い枠」の中軸線が、傾きとともにここに移ってきたものだろうと容易に想像がつく。
「黄色い枠」が具体的にどんなサイズでどんなカタチをしていたのか、それを割り出してみよう。割り出されたものが、「古寺院地区画の原型」というわけだ。
まず、折れ曲がりの場所から下に向けて古寺院地西辺と平行に線を引き(青線)、ピンクのカメムシを縦に二分割する。すると、左半身の幅(赤矢印)は右半身の幅より少し小さいことがわかる。おそらくこの左半身の幅が、「古寺院地区画の原型」を「東偏1度の中軸線」で縦に二分割した半身の幅と同じだろう。
「古寺院地区画の原型」の南西の角は、塔から見た富士山の方角=241度の線上にあるに違いない。そこで、「東偏1度の中軸線」と「241度線」の距離が赤矢印の長さと同じになる場所を探す。「241度線」を南にたどるほど「東偏1度の中軸線」との距離は開いて行き、赤矢印の長さとほぼ同じになる場所は、「塔」と「J」を結ぶ線のちょうど真ん中にあった。


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補足資料:古寺院区画決定手順略図(推定) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

07から12までの補足資料

↓画像をクリックして新しい画面を出し、もう一度クリックすると原寸大になります。
08-2古寺院区画決定手順略図.JPG

古寺院区画決定手順略図.doc(ワード版)
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08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

08.古寺院地区画には「原型」があったのではないか?
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「古寺院地区画溝A-D」の位置と傾きの角度、「B」「C」の位置はどうやって決められたのだろう。そこで試しに、塔と真姿の池湧水を中軸として3つの湧水を均等に取り込むように「黄色い枠」を書いてみる。すると「ピンクの枠」は、「黄色い枠」を左に傾けると出来る形だということは一目瞭然だが、これを少し理屈で説明しよう。

塔を中心とした設計原理
05で述べたように、寺院地の北西と南西の角は、塔から見て夏至の太陽や冬至の太陽が沈む方角が東山道と交わる点を定め(「I」と「J」)、そこにむかって区画溝を掘ることによって角地を形成したものだ。古寺院地区画(ABCD)における北西と南西の角は、いずれも塔からの12方位ラインには乗っていないが、北辺の溝・南辺の溝ともに、西に延長していくと「I」・「J」に到達するように溝の方向が定められている。

このことから、塔から見た日没の範囲を示す「I」地点と「J」地点は、「古寺院区画」が計画された当初から強く意識されており、区画全体を決定する基準点となっていたことがうかがえる。言い換えれば、塔の置かれた場所が全ての計画の基準点となって、全体設計が行われたということだろう。

その塔の場所は03で述べたように、3つの湧水との位置関係において絶妙な一点が選ばれている。

ならば、古寺院地区画の立案にあたっては、まずは左図の「黄色い枠」のようなエリア、すなわち、塔と真姿の池湧水を結ぶ線を中軸として塔の背後に三つの湧水を均等に取り込む「原理的なエリア」とも言うべきエリアがまず想定され、この「黄色い枠」の南辺を西に延長すると「J」地点に到達する角度まで枠を左に傾けるという操作が行われたのではないだろうか。続いて北辺を延長すると「I」に到達するように区画が引き直され、それによって、古寺院地区画の「角の場所」と「辺の角度」が決定されたのではないだろうか。

ならばその「原理的なエリア=古寺院地区画の原型」とは、具体的にどのようなものだったのだろうか

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07.古寺院地区画溝とは? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

07.古寺院地区画溝とは?
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僧寺中枢部の中軸線の少し西側から、一旦掘られて埋め戻された溝跡が出てきた。武蔵国分寺の草創期には、「ピンクの枠」のような寺院地区画が計画されていたと考えられている。

聖武天皇による勅令の変遷
①天平9年(737年)3月
「続日本紀(しょくにほんぎ)」に、諸国に釈迦仏像と菩薩像の造仏と大般若経の書写が命じられた、という記録がある。(仏像を安置するためには金堂も建立されなければならないだろう。)

②天平12年(740年)6月
「続日本紀」に、諸国に法華経の書写と七重塔の建立が命じられた、という記録がある。(造仏と寺の建立の勅命に七重塔建立が追加された)

③天平13年(741年)2月
国分寺建立の詔が出される。(七重の塔と寺の建立に尼寺をセットで建立せよという勅命)
わずか4年足らずの間に次々と追加命令が出ている。②と③の間はわずかに8ヶ月だ。矢継ぎ早の追加命令から、当時の天然痘の流行や凶作による荒廃、巨大地震などの天変地異が余程深刻で、危機対策に迫られていたことがうかがえる。

こうした変遷を経て、最終的には現存の遺構の場所(尼寺は東山道の西、僧寺中枢部は東山道と塔の中間あたり)に創建されたわけだが、現存の僧寺中枢部中軸線の少し西側に、一旦掘られて埋め戻された区画溝跡(A-D)が検出されている。これは武蔵国分寺の草創期、現存の僧寺伽藍地区画よりも古い時期に区画された溝と考えられている。それから間もなく、僧寺中枢部を東山道寄りに造営するよう計画変更が行われ、それにともない「A-D」の溝のみが埋め戻され、北辺、東辺、南辺の区画溝は、計画変更後の区画にそのまま組み入れられたものと考えられている。


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06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

06.塔からの方位線と中枢部中軸線の関係
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僧寺中枢部の中軸線は「塔」と北西の角「I-2」を結ぶ線の真中を通過し、「中門」は271度線の上に乗っている。中枢部中軸線は、七重の塔からの方位ラインによって規定されているのだ。

中軸線を塔が規定している
僧寺北西の角「I-2」と「塔」と「C」を結ぶ直線(ピンク線)には重要な役割が担わされている。ここでは塔を中心とする東西軸も加えて、以下の2点について話しておこう。

①北西の角「I-2」は「塔」をはさんで南東の角「C」と対角をなしているが、このラインは「301度-121度線」(オレンジ線)を、塔を中心に1度ほど時計回りに回転させたライン、と考えることもできる。僧寺中枢部の中軸線は、この「I-2」と「塔」を結ぶ線の真ん中を通過している。

②中軸線上にある「中門」は、塔からの271度線の上にあり、塔と中門は東西横並びになっている。このことは、付近の地理に明るい者にとっては意外な感じがする。付近の現在の東西道路は、どれも僧寺中枢部中軸線にほぼ直角に走っているため、七重の塔は中門よりワンブロック分、南にあるように感じられているのだ。しかし、塔からの方位ラインを地図上に引いてみると、塔と中門は寺院地の東西軸上で横並びであることがわかる。
以上のことから、僧寺中枢部の建物配置は、どうやら塔との位置関係に規定されて設計が行われているらしい。そうなると、「中枢部中軸線の角度」が決定されるにあたっても、塔との位置関係が関わっているのではないだろうか。

そこで次に注目したいのが「古寺院地区画溝」だ。寺院地の北東の角「B」と南東の角「C」、そして北辺の溝の奇妙な「折れ曲がり」がいかに決定されたかを探ることで、中枢部中軸線の角度の謎に迫ってみよう。

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05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

05.北西と南西の角は、塔から見た日没の範囲を指し示す
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七重の塔から西の空を眺めると、夏至の太陽は「I」の彼方の武蔵野台地の地平に、冬至の太陽は「J」の彼方の富士山に沈む。日没の太陽はI-J間60度に開ける地平の彼方を一年でダイナミックに往復する。古代の人々は太陽の運行のダイナミズムを現代人より遥かに実感し、世界を支配する神秘な摂理として捉えていたに違いない。

寺院地北西の角「I」は二つでひとつ
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寺院地北西の角には角と言うべき場所が二つある。
一つ目の角「301度線」(オレンジ線)と「東山道西辺」の交点を「I-1」としよう。寺院地北辺の溝はこの交点にぶつかり角を形成している。しかし「塔からJ」を半径とする緑色の円は「I-1」に交わらない。これは、東山道が2度ほど東偏しており、塔と真姿の池湧水を結ぶ東偏1度線と平行ではないからだ。
「塔からJ」を半径とする緑色の円が「東山道西辺」と交差する場所が「I-2」、これがもうひとつの角だ。
「I-1」から「塔」の延長線は寺院地南東の角「C」からわずかにズレる(オレンジ線)。その「C」から「塔」の延長線は「I-2」に到達する(ピンク線)。「I-2」は「塔」を挟んで「C」と対角をなしている。
I-Jの距離は塔との距離で決まる
「I-塔-J」はほぼ正三角形だ。塔の位置がもっと東山道寄りであれば、「I-J」の距離は短くなり、もっと遠ければ「I-J」の距離は長くなる。「I-J」すなわちこの寺院地の南北の長さは、塔と東山道の距離によって決定されているということがわかる。
その塔は、真姿の池湧水の南300mに位置するように場所が選ばれたわけだから、「I-J」の距離と角の位置は、塔と湧水の関係によって決定されている。
この寺院地の核はつまり「湧泉」なのだ。

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04.七重の塔と富士山の関係 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅰ.七重の塔を巡る方位線上に区割りと配置を読む

04.七重の塔と富士山の関係
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寺院地南辺の溝が東山道にぶつかる「南西の角J」は、塔から見ると「方位241度線」が東山道と交わる地点だ。241度線は富士山頂に通じ、冬至の太陽は富士山頂の真下に沈む。

南西の角は富士山頂に通じる
寺院地の南西の角「J」は、寺院地南辺の溝が東山道にぶつかることによって形成されている角であるが、この角は何故この場所に作られたのだろうか。実はこの場所、塔から見ると冬至の太陽が沈む方角だ。そしてこの方角は、国分寺から見た富士山頂の方角(真西から29度南)と一致する。国分寺では今も昔も、冬至前後の太陽は富士山の山頂に沈むのだ。
太陽が最も南に沈む冬至の日(12月22日)、太陽は富士山の向かって左の肩口から入り、山頂の真下に沈む。そして、冬至の20日ほど前と冬至の20ほど後、太陽は富士山頂に沈み、天気がよければしばしばダイヤモンド富士が見られる。それはさながら、そこに仏が現れたような荘厳な光景となる。
その富士山頂の方角が241度だ。東偏1度を基軸として30度刻みに描いた12方位の一つがこの方角を指す。敢えて真北を基軸とはせず、東偏1度ラインが基軸となるように塔を配置した理由はここにあるのではないだろうか。うまく折り合いがつくように「図面上の微調整」が行われているようなのだ。
そして、塔から富士山頂への方位線が東山道と交わる場所が僧寺寺院地の「南西の角」と定められ、寺院地南辺の溝はそこに向かって掘られたのだ。そして、その角には尼寺伽藍地の「南東の角」が近接している。
ちなみに21世紀の今でも、冬の晴れた日、七重の塔跡からは富士山が見える。まるで1200年前の古代寺院の残像が今もこの地に生き続け、人の目には見えない七重の塔が、今も寺院地の角ごしに、かなたの富士を見つめているようだ。

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