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24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える
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版築土中から瓦が出てきたり、再建期の土器が出てきたり、数少ない出土品は、草創期の遺構である可能性を低めるものばかりだそうだが、時代を特定する遺物があまりにも少なすぎて断定には至らない。この塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

時期と理由① 草創期と仮定した場合
塔跡1の50mほど西側に、崖線の連なりが最も美しく見えるポイントがあり、塔跡2がまさにその場所だ。尼寺と一体的な計画を前提としない段階であれば、塔が塔跡1以外の場所に計画されていてもおかしくはない。尼寺を含まない740年勅令から翌741年の尼寺併設令までの間に基礎工事がここまで進んだということはありえないが、741年の尼寺併設令が出た際「尼寺は別途しかるべき場所に作ればよい」として、塔跡2での工事が相当に長らく続行されていたと考えれば、この場所に塔跡があってもおかしくはない。

しかし、国分寺建立の詔の趣旨は二寺一体計画だ。諸国国分寺の多くにおいて、二寺は一体的計画とはならなかったようだが、武蔵国分寺においては、勅令の趣旨を遵守すべきとする意見が優勢となり、ほぼ完成した基壇に上物を建築することをついに断念。塔を東に新しく作り直すことで、七重の塔・僧寺・尼寺一体的な計画を作成しなおした、ということは考えられる。

何故、塔を東に移動させる必要があるかというと、尼寺を含めた一体的な計画とするためには、当然、寺院地を東山道まで拡大する必要があり、その方法は、塔から見た夏至の日没・冬至の日没の方角が東山道と交わるところを寺院地の北西角・南西角とする方法だ。ところが塔跡2の場所からこの方向決めを行うと、夏至の日没の方位線が崖の中腹で東山道と交わってしまい、東山道寄りの崖線を崖上まで取り込めなくなってしまう。そこで計画を根本的に練り直し、塔を新しく作り直した。以上のように考えれば、「創建塔を中途で断念し作り直した」という仮説に一応の説明はつく。

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