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21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈
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「草創期において、まず塔中心の区割り(古寺院区画)が計画され早くから着手されたが、その後、金堂中心の考え方に変わり計画変更。変更後、まず金堂の位置が決定され、金堂を中心に全体の区割りが決定されたが、塔の位置はかわらなかったため塔が遠くに取り残された。」市教委はこう説明してきたのだが・・。

「現存遺構」は「原計画」の踏襲では?
筆者は13項で「古寺院地区画」内に中枢部中軸線を想定してみたが、これを東山道まで拡大した寺院地の中で捉え直してみると、中枢部中軸線はなんと、そのど真ん中だ。そして金堂は「IBCJ」の対角線の交点付近にある。するとこの中軸線は、はじめから「IBCJ」の中心として設定されたのではないだろうか。

現存の遺構では、僧寺中枢部中軸線が「尼寺南西角」と「C」の真ん中を通っている。そうなると、「A-Dの溝」が掘られた時点においても、僧寺中枢部中軸線を挟んで「C」の反対側に尼寺を作る計画がたてられ、計画変更後の計画においても、僧寺中枢部中軸線を中心とする基本的位置関係が踏襲された、と考えるべきではないか。741年の国分寺建立の詔以降、このような「原計画」が存在していたのではないだろうか。

その後間もなく何らかの理由で尼寺が東山道の西側に遷されることになり、それに伴って僧寺中枢部も西へ平行移動することになった。変更後の計画において、隣接する尼寺と僧寺を隔てていたものは東山道だ。とすれば、「A-Dの溝」は、「隣接する尼寺と僧寺を隔てる溝」として掘られ、計画変更にともなって埋められた、と考えるのが最も自然ではないだろうか。

すると、741年の国分寺建立の詔を受けて、①「A-Dの溝」を隔てて僧寺と尼寺を隣接させようとしたのが原計画、②東山道を隔てて隣接させたのが変更後計画、という分け方が成り立つ。むろんどちらも塔の位置を基準点として、金堂が中央に位置するように区割りと配置が割り出されたもので、基本的な設計思想になんら変更はなかった、と筆者は考えている。

<参考資料>武蔵国分寺跡資料館解説シ-トNo.4「武蔵国分寺の建立」


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