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07.古寺院地区画溝とは? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅱ.草創期の区割りと配置

07.古寺院地区画溝とは?
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僧寺中枢部の中軸線の少し西側から、一旦掘られて埋め戻された溝跡が出てきた。武蔵国分寺の草創期には、「ピンクの枠」のような寺院地区画が計画されていたと考えられている。

聖武天皇による勅令の変遷
①天平9年(737年)3月
「続日本紀(しょくにほんぎ)」に、諸国に釈迦仏像と菩薩像の造仏と大般若経の書写が命じられた、という記録がある。(仏像を安置するためには金堂も建立されなければならないだろう。)

②天平12年(740年)6月
「続日本紀」に、諸国に法華経の書写と七重塔の建立が命じられた、という記録がある。(造仏と寺の建立の勅命に七重塔建立が追加された)

③天平13年(741年)2月
国分寺建立の詔が出される。(七重の塔と寺の建立に尼寺をセットで建立せよという勅命)
わずか4年足らずの間に次々と追加命令が出ている。②と③の間はわずかに8ヶ月だ。矢継ぎ早の追加命令から、当時の天然痘の流行や凶作による荒廃、巨大地震などの天変地異が余程深刻で、危機対策に迫られていたことがうかがえる。

こうした変遷を経て、最終的には現存の遺構の場所(尼寺は東山道の西、僧寺中枢部は東山道と塔の中間あたり)に創建されたわけだが、現存の僧寺中枢部中軸線の少し西側に、一旦掘られて埋め戻された区画溝跡(A-D)が検出されている。これは武蔵国分寺の草創期、現存の僧寺伽藍地区画よりも古い時期に区画された溝と考えられている。それから間もなく、僧寺中枢部を東山道寄りに造営するよう計画変更が行われ、それにともない「A-D」の溝のみが埋め戻され、北辺、東辺、南辺の区画溝は、計画変更後の区画にそのまま組み入れられたものと考えられている。


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