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00-1はじめに(塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

 2003年12月、真姿の池湧水の崖上に計画された大規模マンション建設がついに着手され、泉につながる水みちの上に巨大な鉄の基礎杭が103本も打ち込まれました。直径1mを越える鋼管杭の先端には直径2mの羽根がついており、その羽根を回転させることで関東ローム層とその下の砂礫層を掘削して杭を貫入させる方式が採られました。基礎工事に続いて躯体工事も着々と進み、2004年の盛夏を待たずして、ハケ下の史跡から見渡す崖線樹冠の上にマンション躯体がニョッキリと姿を現しました。太古より守られ続けてきた国分寺崖線の連続した緑の景観はここへ来てついに分断されてしまったのです。

 天平時代、ここが武蔵国分寺造営の地として選ばれたのは、この地がまさに四神相応の地としての条件を全て兼ね備えていたからと聞きます。北の玄武(泉湧く丘)、東の青竜(野川)、南の朱雀(国府)、西の白虎(大道=東山道武蔵路)の全てが揃う、まさに好処そのものだったのです。

 私たちは七重の塔跡から北に望む崖線の、まさしく真正面にマンション躯体が姿を現したのを見て、マンションの真下に湧く真姿の池湧水と七重の塔が、まさに南北の位置関係にあることを実感しました。村山光一先生のお説のとおり、なだらかに連なる緑の崖線景観と湧水と塔とはまさに不可分の関係であったこと、そのような位置関係になるように塔の場所が選ばれていたことを実感しました。

 1200年もの間、壊されずに守られてきた歴史的景観が私たちの時代に壊されてしまった。筆者はそのことに少なからず衝撃を受けました。そのことを契機として、地元住民である筆者は、方位磁石と遺跡地図を片手に、ひたすら史跡周辺を歩き、1200年前、どこに何があったのか、その位置関係がどうなっているのかを確かめてまわりました。その結果、武蔵国分寺の区画や主要施設の位置が、ことごとく塔からの方位によって説明できることに気づきました。

 筆者は古代史や考古学について、興味はあるが全くの素人であります。国分寺市の教育委員会が編纂した郷土史解説本や遺跡発掘調査報告など、一般市民の手に届くものは出来る限り目を通し続けていますが、「武蔵国分寺の区割りと配置が塔からの方位によって説明できる」とする解説にはまだ遭遇しておりません。そんな風に見た人がいなかったのか、それとも既に否定されていることなのか、そのことさえ筆者は知りません。

 ただ、筆者は日頃、音楽や芸能に携わっているため、舞台づくりを自分の本分と考えて暮らしています。筆者にとって、自然景観は一種の舞台に見えます。等高線の書き込まれた地形図を見ても一種の舞台配置図に見えてしまい、航空写真のような鳥瞰図が目に浮かびます。そして舞台づくりに携わる者特有のクセでしょうか、モノの配置や動線は、前後左右や上下だけでなく、円や対角線で見たり、実際には見えていない角度から視るクセがあります。

 今、筆者の頭の中には、崖線の裾野に広がる古代寺院の景観がコンピュ-タ・グラフィックのように浮かび、現在の史跡周辺の風景とオ-バ-ラップしています。脳ミソとはなかなか便利なものです。この頭の中の映像を、巨大な体育館のような空間を使って、空気の中に浮かび上がらせることができたらさぞかし面白いだろう、そんな博物館が出来たらいいのにな、と夢を描いているのですが、夢は夢として、今は言葉と図を使って描くことにトライしてみようと思い立ちました。

 国分寺建立の主人公、聖武天皇がその時どんな夢を夢見たか、それを浮かび上がらせることが出来たら面白いですね。怖いもの知らずの素人だからこそ、歴史を今の暮らしに引き寄せた紐解き方があってもいいのではないかと思っています。

 読んでくださる方を最後まで引き付けられる自信はまるでありませんが、お付き合いいただけるところまでお付き合いくださればありがたく思います。
2006年夏 国分寺・名水と歴史的景観を守る会 畑中久美子

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